有田街道
 ~荷担(ににゃあ)さんの道と伊能忠敬測量路~

 有田の「やきもの」は、伊万里の港から日本各地や世界の各地へ運ばれましたが、有田皿山から伊万里津までの経路は、黒髪山や青螺山を迂回する形で宮野を通る上手路(かみてじ)と有田川沿いに下る下手路(しもてじ)の二つの道筋がありました。有田街道と呼ばれていました。   荷担さんの肩によって運ばれ、時として牛馬による運搬だったと言われています。
 有田街道の下手路は、1812年(文化9年)伊能忠敬測量隊が測量しています。 
 文化9年(1812年)の1月、小倉を出立した測量隊は、先手隊と後手隊に別れ、博多、唐津、伊万里の順に測量を行い、9月9日に伊万里に入りますが、10日、伊万里宿にて食あたりで、測量隊が再編成されています。11~13日は、山代方面を計り、14日、有田方面の測量に着手しています。

1、伊能忠敬の伊万里宿泊地
 現在の佐賀銀行伊万里支店の所には、江戸後期から明治にかけて、豪商石丸家があり、亀屋と号しました。その前の通りは亀屋通りと呼ばれ、伊能忠敬測量本隊が泊ったのは、「伊万里町役 亀右衛門」とあることから、その石丸本家の可能性が高いとされています。

2、伊万里津
 中世までは、伊万里浦と呼ばれ、16世紀末の文禄・慶長の役の際、鍋島直茂は、ここから出帆しています。
 江戸時代、佐嘉本藩の直轄地となり、有田代官所の出張所の伊万里役屋敷がありました。17世紀中頃の「正保国絵図」(1647年)には、「伊万里津は、遠浅、舟大小50~60艘程留まる」と記されてあり、河岸には白壁土蔵造りの家屋や倉庫が軒を連ね、船への荷積みのために川に降りる石段が至る所にあったそうです。

3、旧犬塚家住宅(陶器商家資料館)
 鍋島藩政時代の伊万里は、多くの陶器商が活躍しており中でも、犬塚家は、創業明和元年(1764年)で、伊万里屈指の、陶器商として○駒の商号で大阪や江戸へ盛んに陶磁器を積み出していました。
 旧犬塚家住宅は、文政8年(1825年)頃に建てられた妻入り二階建てで、間口三間、奥行八間のいわゆる「うなぎのねどこ」状の細長い造りです。屋根は、切妻本瓦葺き棟を南北にとり、白壁土蔵造りで防火対策と同時に重厚な商家としての格式を漂わせています。
 


4、大石良知の墓碑
 江湖の辻の峠にあります。元禄年間の忠臣蔵で有名な大石内蔵助良雄の遺児で、大阪で吉兵衛と名乗り住んでいましたが、父の恩師、山鹿素行の墓参りに平戸を訪れ、薬種問屋の藤田松宇(第7代)と懇意になり、3年間、客人として平戸に滞在しましたが、伊万里で病死したそうです。享年52歳。刀や琴が藤田家に保存されてあるそうです。

5、道しるべ
 ①金武地区、有田川沿いに「いまりありた道」「赤坂内野馬場 中田炭山 道」と刻まれた石の道標があります。有田街道と国見岳山麓道の追分となっているところです。
 ②有田消防本部と穂波跨道橋の間、MR踏切のそばに「有田 武雄道」「くろむた ひろせ道」の道標があります。ここは、有田街道と黒牟田広瀬地区への追分です。

 ①と②の道標は、伊万里の実業家、松尾良吉氏が建てたもので、明治19年(1886)以降昭和5年(1930)まで、佐賀長崎県下にたくさんの道標を建てました。旅人や数多くの人々のための思いやりの遺物です。

5、大木宿、有田代官所跡
 慶長絵図に大木村とあり、貞享4年(1687年)の郷村帳に宿駅の印があります。佐賀藩は、西目(藩の西部地方)一帯の要所として、代官所を大木に設けています。4代目の代官は、「葉隠」の著者 山本常朝の父である山本重澄です。寛永12年(1635年)に赴任しています。大木から皿山に代官所が移された年代は、はっきりしませんが、白川稲荷の勘請の記録などから、寛保3年(1743年)以前だと推測されています。佐賀藩の馬を管理する牧奉行も兼ねており、藩の牧場を楠久、大川内山吉田、牧島、西有田(牧地区)に設けています。牧地区には、「馬ふせぎ」の石塁が残っており、調練の馬場跡も残っています。

6、乱れ橋
 豊臣秀吉の文禄・慶長の役後、鍋島直茂が連れ帰った李参平ら朝鮮人陶工は、多久長門守安順に預けられ、生活していましたが、言葉が通じないこともあり、暇を申し出、朝鮮で従事していた製陶業を営むために、有田郷乱れ橋に移り住み、田畑を開きながら、陶石を探しているうちに泉山の白磁鉱発見したといいます。三代橋周辺には、内山一帯より以前の陶器から磁器への移行期の古窯がたくさんあります。

7、波佐見・武雄 追分
 東図書館の前の道路を渡り、元宝来軒の横の細道を入っていくと、突き当りに三差路があります。伊能忠敬測量隊は翌文化10年9月21日、そこから前年に残した黒川の郷印に繋ぎに行っています。
ももちゃんの西有田史跡マップ