波に鯉
波に麒麟
獅子と龍
波に兎
有田陶器市が121万人という人々を包み込んで、5月が始まりました。
白磁と青磁、赤絵、そして、山々の緑、1年で一番、光輝く季節です。
 さて、有田焼創業400年(2016年)に向けて、商工会や役場は、一生懸命旗を振っておられますが、町民一般は、あまり実感がわいてきません。
 いつものように、寅の時(午前4時頃)に、ふと思いついたのが、法泉寺の本堂も、築400年だなあということでした。もともと、唐船城のふもとにあった普門院という真言宗のお寺だったそうで、有田川の飛び石を渡ってお参りされていたそうですが、大雨が降ると、渡れず、お参りできないために、明治の中ごろ、大木宿平瀬山の現在地に龍泉寺を新築されたそうです。その際、取り壊された普門院の木材を本村の中央にあった墓山というところに運び、建立されたのが、法泉寺の本堂です。
 今回、本堂玄関の所の雨漏り修理をしていたら、シロアリもいて、床下のシロアリ駆除をして、玄関の銅板や外壁も替えて、塗装をしていたら、だんだん本堂の外柱まで、塗装が伸びて、向拝の柱から梁、狛犬や龍の彫り物にも塗装したら、切妻の部分も浮いたように見えたので、そこにも塗装を施してもらいました。ところが、紅梁の上に載っている県の文化財指定にされようとした(実際には祖父や父が反対して文化財には指定されていない)「波に兎」の彫り物が目立たなくなってしまいました。
 そこで、有田工業高校の草場先生のアドバイスを受けて、白いベンガラに柿渋を混ぜて、白く着色してみると、見事に浮き上がり、桃山時代後期の彫刻技術が、本当に素晴らしいものと再認識させられました。
 そうこうしていると、また、寅の時のひらめきで、格子天井に有田在住の絵描きさんやデザイナーに一人一枚ずつ絵を描いていただき、天井画にすれば、有田総業400年の一つのトピックスになるのではないかと思ったのです。さっそくいろいろ知恵者に相談すると、最良の方法が見つかりました。画仙紙に水彩で描いてコーティングし、シナベニヤの板に張り付けて。天井に打ち付けるという方法です。

これから、200人ほどの絵を描いて奉納してくださる方をリストアップし、来年に向けて、この企画を広げていこうと思っています。
 むりょうじゅ会の会員の方の中に、賛同いただく方や、絵を描いてくださる方があれば、ぜひご協力のほど、お願い申し申し上げます。
 一人の有名な画家の方より、たくさんの方々の協力こそ、浄土真宗的イベントだと思います。
  ちなみに、有田町史を参考にして、法泉寺の歴史をまとめてみました。

       ●法泉寺の歴史について
 法泉寺の本堂は、江戸時代の初めごろ(約400年前)現在の有田大観音
のある唐船城のふもとにありました。
真言宗の普門院というお寺で、当時、有田川にかかる橋がなく、飛び石を渡っ
て、信徒はお参りをしていました。しかし、大雨が降ると、川が増水し、飛び石
が隠れ、渡ることができなかったのです。
 そこで、大木地区の真言宗の信徒は、現在地に龍泉寺を建立しました。
明治29年のことです。
下舞原にあった浄土真宗の法徳庵の桃谷自牽は、地元の区民の力を借りて、
上本の中心地にあった墓山と呼ばれていた所に、普門院の建物を移築し、
本村布教所としての拠点としました。
 その起源は明らかではありませんが、初代または二代庵主のものと区民が
伝える墓碑が下迎にあります。
 それに「智教師、嘉永六年癸丑三月二十日 施主 当庵三代○乗」とあり、
嘉永以前に始まることは確かなようです。
所在地は舞原から下迎、さらにもう一ヶ所移った末、明治以前に区の中央に
当たる現在地に落ち着き、代々、仏法の布教に努めてきました。
 元は法徳庵といいましたが、昭和十四年に宗教団体法が公布された際に
本村布教所と改め、戦後の宗教法人令をうけて二十三年二月に浄土真宗
法泉寺となったのです。
 墓碑にある「○乗」は、佐賀市高木瀬の報恩寺の住職桃谷力乗のことでは
ないかと思います。力乗の長男が、桃谷自牽です。その長男が桃谷洞雲で
洞雲は、小長井(現:諫早市)の浄真寺に入り、次男の法隆が法泉寺の初代
住職となり、湯江(現:諫早市>から管見徹城を養子として迎え2代住職を継が
せ、現在、法信が3代住職として、法統を継承しています。
 今、土曜学校や子ども雅楽など、次世代を担う子どもたちの宗教的情操教育に
力を注いでいますが、曽祖父、自牽さんのDNAが、引き継がれているなあと思う
時があります。
法泉寺本堂天井画募集中
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ご希望の方は、090-4989-1768 までご連絡ください。

 その趣旨を 「無量寿5月号」から引用していますので
お読みください。