しんらんさまの不思議な言葉 その11、極楽という言葉がない。
親鸞さまほど言葉の使い方にきびしい方を他にみたことはござらん。拯済(じょうさい:落ちたものをものを落ちた所まで行って救う)、摂取(せっしゅ:逃げる者をば追わえとる)など、漢字の左側にご自分の味わいをわかりやすく書いてくださっている(左訓:さくん)のでござるが、共通して言えるのは、すべて、人間の側から見た使い方ではなく、仏さまの方から見られた言葉、阿弥陀さまのお手回しの言葉遣いをしておられるのでござる。 獲得(ぎゃくとく)とは、「信心をいただく」(身に得る)という意味でお使いになっておられるのでござるが、どちらも、「自分のものになる」という漢字を「獲」は、因位の時、「得」は、果位の時と、使い分けておられるのでござる。 つまり、「米がとれる」と見通しをつけられた時に「獲」を、「米を取り入れた」結果の時を、「得」というふうにでござる。 そのように、言葉遣いにきびしい親鸞さまが「極楽」という言葉をつかわれていないのはなぜか、それが問題なのでござる。 「それ、真実の教をあらわさば、大無量寿経、これなり。」と言い切られた親鸞さまの尊ばれた経典「大無量寿経」の中にも、「極楽」という言葉はござらん。それ故、真実の教かもしれぬが・・・・ それでは、いわゆる「極楽」の代わりにどんな言葉を使っておられるかといえば、 「真実報土」「無量光明土」「安養界」「淨刹」「報土」・・・等の言葉でお浄土をあらわしておられるのでござる。 これらの言葉に対して、「極楽」という言葉の響きが、この世の欲望の世界の延長にあるようなニュアンス(楽の極み、何もしなくてもよい、素敵なところ、安らかに眠る処・・など)で受け止められるのを嫌われたのではござるまいか。 この苦悩の多い娑婆世界での悲しみや苦しみから逃れて、この世で満たされなかった楽しみを味わえる世界として「極楽」を考え、そこへの往生を願っているとすれば、大きな間違いでござる。 極楽往生ではなく、往生浄土であり、人間的な欲望の充足ではなく、浄土に往生し、そこで、弥陀同体の悟りをひらかせていただき、苦悩の有情を救う仏さまの働きをさせていただくのでござる。 浄土とは、成仏の世界であり、私の生命の完成の世界なのでござる。 「極楽」という言葉を使ってはならぬということではござらん。(蓮如さまも、御文章では使われておる) (1996.10 むりょうじゅ153号) |