しんらんさまの不思議な言葉

その14、義なきを義とす


 この言葉は、歎異抄第10章にでてまいるが、これまた、不思議な言葉ござる。

「義のないものを義とする。」とは、どのような意味でござろうか。

「義」という語を辞書で調べてみると

1, すじ道(義見、律義)  
2,よい、けじめ(正義、義士・・)
3,公共のために尽くすこと(義捐金、義援金、義倉・・)
4,,
理由、わけ(意義、疑義・・)
5,約束した親類関係(義兄弟、義父・・)
6,仮の(義足、義手・・)   などと書かれてござる

これらはすべて、人間の行為(身、口、意:しん、く、い、の三業)でござる。

 それでは、親鸞さまは、どのような意味で「義」という言葉を使われたのでござろうか。第10章の全文は、短こうござる。



念仏には、無義をもって、義とす。

不可称、不可説、不可思議のゆへにと仰せ候ひき

{「如来さまのお独りばたらきで救われる“他力のお念仏”では、人間のはからい(あれこれ心をはたらかすこと)のないのを本義(本当の在り方)とします。なぜなら、如来さまのおはたらきは、たたえることも、説くことも、思いはかることもできないからです。」と親鸞さまはおっしゃいました。}




 

 

 

 

 

 つまり、無義とは、念仏のことなのでござる。

お念仏は、凡夫のはからうことではなく、如来さまの全くのお独りばたらきのことで、人間があれこれ心をはたらかせたり、称えることを主義としたり、自分のてがらとして往生の手段にしたりすることではないことを、親鸞さまは、示して下さったのでござる。

 如来回向(にょらいえこう:如来さまのさし回し)の他力本願をいただいた私の口を通して、如来さまがはたらいておられるのでござる。

 人間の行為を否定するのではなく、お念仏には、人間の行為やはからいの入り込む余地などまったくないということを力説されているのでござる。

 それにしても、なんとこの第10章の簡潔な、そして、明瞭なことでござろうか。

                           (1997.1 むりょうじゅ156)

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