しんらんさまの不思議な言葉 その15、海の字がたくさん。 本願海、群生海、智願海、生死海・・・・ お正信偈は言うに及ばず、ご本典(教行信証)、ご和讃、末灯抄など、ありとあらゆる親鸞さまの著された御書物の中には、「海」という字が、たくさんたくさん出てまいる。 例えば、お正信偈の中に 唯説弥陀本願海(ゆいせつみだほんがんかい)、 ご本典の中には、 難思の弘誓は難度海を渡する大船・・など多数 また、ご和讃には、 18、大心海を帰命せよ 125、生死の苦海ほとりなし 131、功徳の宝海満ちみちて 133、弘誓の智海より生ず 159、名号不思議の海水は 160、大悲大願の海水に 237、衆善海水のごとくなり 251、生死の大海きわもなし 260、弥陀の智願海水に 273、生死大海の船筏なり 277、弥陀智願の広海に 283、苦海の沈淪いかがせん 290、生死の苦海に浮かびつつ 335、苦海をいかでかわたるべき (353首の三帖和讃に14首) など、ほんの一部を取り上げてみたのでござるが、どうも、親鸞さまは、この「海」という言葉を大きく2つに分けて使っておられるようでござる。しかも、全く相反する意味があるのでござる。 ひとつは、人間のこの娑婆世界の苦しみの深さを表し、二つには、如来の本願力の大きさを表しておられるのでござる。 @
人間の苦・・・生死海、群生海、煩悩海、苦海、難度海・・・ A
仏さまの慈悲・・・大心海、功徳の宝海、智願海、広海、本願海・・・・ ところで、親鸞さまにとって、「海」とは、どのような存在だったのでござろうか。 京の日野の里でお生まれになり、比叡の山で育たれた親鸞さまが、琵琶湖でない本当の海にであわれたのは、おそらく35歳で越後に流罪になられた時が、初めてのことではござるまいか。はじめて海をご覧になられた時の感動は、いかばかりでござったろう。 荒れ狂う冬の日本海に、有情の人間の煩悩を重ね合わせ、おだやかな春の海に如来の本願力の大きさを感じられたのでござろう。 そして、万川帰し、清きも濁りも、わけへだてなく受け入れる海こそ、悩み多き濁ったまんまの存在である我らの帰するお浄土と受け止められたにちがいござらん。 法泉寺の庫裡の玄関に、右のような色紙が 架けてござる。 これは、1985年、伊万里で講演していた だいた東井義雄先生が、書いて下さった色紙 の一枚でござる。 川は、やがて、海へと帰るのでござる。 私の煩悩が大きければ大きいほど、如来の ご本願もそれに対応して、大きゅうござる。 海は広いな大きいな。ゆれてどこまで 続くのでござろうか。 (1997.2 むりょうじゅ157号) |
川にそって岸ができている 川のための岸 |