しんらんさまの不思議な言葉

その16、
 
自然・・「しぜん」と読まずに「じねん」と読む

 山芋のことを、自然薯(じねんじょ」と昔の人は呼んでおられた。
自然を(しぜん)と読まずに(じねん)と読むことは、深い意味があるのでござる。

自然界 や自然科学といった客観的なものではなく、「われ」に立脚した、親鸞さま発想の独特の呼び方なのでござる。

 出典は、「自然法爾章」、正像末和讃を書き終わるにあたって、親鸞さまが88歳の時に書き遺されたものでござる。

獲の字は、因位の時うるを獲といふ。得の字は、果位の時に到りてうるを得といふなり。名の字は、因位の時のなを名といふ。号の字は、果位の時のなを号といふ。

自然といふは、自は、おのずからといふ。行者のはからいにあらず、しからしむといふことばなり。然といふは、しからしむといふことば。行者のはからいにあらず、如来のちかひにてあるがゆへに。

●法爾といふは、如来の御ちかいなるがゆへに、しからしむを法爾といふ。この法爾は御ちかひなるゆへに、すべて行者のはからいなきをもちて、このゆへに、他力には、義なきを義とすと知るべきなり。

自然といふは、もとよりしからしむといふことばなり。弥陀仏の御ちかひのもとより、行者のはからいにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて、むかへんとはからはせたまひたるによりて、行者のよからんとも、あしからんともおもはぬを 自然とはまふすぞとききてさふらふ。

ちかひのやうは、無上仏にならしめんとちかひたまへるなり。無上仏とまふすは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆへに自然とはまふすなり。かたちましますとしめすときは無上涅槃とはまふさず、かたちもましまさぬようを知らせんとて、はじめに弥陀仏とぞききならひてさふらふ。弥陀仏は自然のやう(様)を知らせん料なり。

この道理をこころえつるのちには、この自然のことは、つねにさたすべきことにはあらざるなり。つねに自然を沙汰せば、義なきを義とすといふことは、なを義のあるべし。これは、仏智のふしぎにてあるなり。

 すなわち、「自然」とは、人為を加えない人の造作を離れた「ありのまま」の意味でござる。大無量寿経には、56回、観無量寿経には6回、阿弥陀経には1回出てまいる。親鸞さまは、阿弥陀如来の誓願を自然と呼ばれたのでござる。人間の方からあれこれ検討を加えて計らうことではないことがよく現れているので自然の文字をつかわれているのでござる。

 お正信偈にも「自然」という言葉が出てまいる。

億念弥陀仏本願(弥陀の誓いに帰しぬれば)自然即時入必定(不退の位自然なり)

唯能常称如来号(ただよく常にみ名となえ)応報大悲誓願(深き恵みにこたえかし)

 不退の位とは、「住不退転」すなわち、決して退かない成仏が約束された位でござる。自は(おのずから)然は、(しからしむ)でござるから、自力のはからいにあらず、絶対他力ということになるのでござる。
   *ちなみに長男自然が、この3月、龍谷大学仏教科を卒業します。
                              1997.3むりょうじゅ158号)

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