しんらんさまの不思議な言葉

その17、信心よろこぶ人は、弥勒と同じ


 親鸞さまは、[信心よろこぶ人]を[弥勒と同じ]と教えて、ほめてくださっておる。

『一念多念証文』という和語の著述の中や門弟あてのお手書み(ご消息)の中にも、たびたび、「弥勒と同じ」と繰り返しておいででござる。また、正像末和讃の中にも、回向の論理を説く中で、次のような和讃をおつくりになっておる。

●五十六億七千万 弥勒菩薩はとしをへん まことの信心うる人は、このたびさとり を ひらくべし

念仏往生の願により 等正覚にいたる人 すなわち弥勒に同じくて 大涅槃を  さとるべし

真実信心うるゆへに すなわち定聚に入りぬれば 補処の弥勒に同じくて 無上覚をさとるなり

補処というのは、補は、候補者、処は、場所ということで、「仏さまの候補者であり、後任者である弥勒菩薩とこの泥凡夫の私が等しいのだよ。」と親鸞さまがほめてくださっているのでござる。

 善功徳を積むこともできず、仏道修行もおぼつかぬ泥凡夫のこの私が、どうして仏陀となることが決まっている弥勒菩薩と等しいとおっしゃるのでござろうか。

 それは、親鸞さまの教えてくださるみ教え(浄土真宗の教義)が、自力道門の教えではなく、阿弥陀如来の本願力回向を旨とする他力浄土門の教えだからでござる。

 自力の修行では、仏と成るためには、52の段階を経ねばならぬが、(十信、十住、十行、十回向、十地の五十段と五十一番目の等正覚、そして、五十二番目の妙覚)・・余談だが、東海道五十三次は、ここからまたは、華厳経の善哉童子物語からきているといわれているが・・この煩悩具足の泥凡夫が、五十二段を一つ一つ昇って行くのはとうてい不可能であると悟られた親鸞さまが(四十九段まで登っていても、ひとかけらの欲が起こると最下段まで落ちるといわれている)法然さまのお導きによって、阿弥陀如来のひとり働きであるご本願(絶対他力)を頼りとする以外に、どんな神様もどんな如来さまも頼りにはしないと決められたのでござる。この信心を得たものは、自力の修行を必要とせず、(雑行雑修をふりすてて)信心正因、称名報恩の念仏の行者となるのでござる。ゆえに、阿弥陀如来のひとり働きによって、五十段をひととびに越えて五十一番目の等正覚という位、すなわち、弥勒菩薩と同じ位に着くことができるのでござる。そして、そこは、下に落ちることがない不退転の位と呼ばれているのでござる。なんというもったいなくありがたいみ教えでござろうか。                                       (1997.4むりょうじゅ159号)

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