しんらんさまの不思議な言葉

その19、南無阿弥陀仏を称うれば @

 

 親鸞さまは、よき人法然上人のみ教えをそのまま受け継いだと自分では言われているが、さらに一歩深く進められた方でござる。行(お念仏の数)よりも信(信心正因)、臨終往生(死ぬ間際に救われる)のではなく、平生業成(今ここで信心の身となり念仏申す身となる)であることを、はっきりしてくださったのでござる。

 そして、お念仏申す(南無阿弥陀仏を称える)事の意味を私たちにわかりやすく示してくださったのでござる。

 お念仏申すということは、ふつう、「念仏したら救われる。」つまり、私の行いとしてのお念仏を条件として、それと引き替えに、救われるという目的が達成されると考えることが多いのでござるが、親鸞さまのお考えはそうではなく、お念仏は、手段ではなく目的である。それ自体に値打ちがある。と思われているのでござる。

 それは、親鸞さまがお書きになったたくさんお書物の中に出てまいる。例えば、尊号真像銘文や現世利益和讃の中には、「南無阿弥陀仏をとなふるは・・・」「南無阿弥陀仏をともうれば・・・」などと、たくさんたくさん出てまいるので、そこに注目して読んでいけば、親鸞さまのよろこびを味わうことができるのでござる。

「尊号真像銘文」というご著述のなかに、

南無阿弥陀仏をとなふるは、仏をほめたてまつるになるとなり」とござる。

仏をほめたたえるためにお念仏申すことではなくて、お念仏申すことが、おのずから阿弥陀さまをほめたたえることになると味わわれているのでござる。

また、「南無阿弥陀仏をとなふるは、すなわち、無始よりこのかたの罪業を懺悔することになると申すなり」とござる。

 懺悔するためにお念仏申すということではなくて、お念仏申すことが、初めのわからない昔から積み重ねてきた私の罪の行いを懺悔することになり、気付かずに犯した罪や、他の人々の苦しみや悲しみに気をつけるようになるということに、つながってくるのでござる。

 お念仏は、聞く耳持たぬ私のために、私のきたない口を動かして出てきて下さる阿弥陀さまの呼び声でござる。音となって現れてくださる阿弥陀さまの姿と受け止め、そのまんま、よろこぶことが大事ではござるまいか。

1997.6 むりょうじゅ161号)


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