しんらんさまの不思議な言葉

その20、南無阿弥陀仏を称うればA

 

 前号で「尊号真像銘文」に出てまいる称名(南無阿弥陀仏のお念仏を称えること)の功徳について少々触れてみたのでござるが、今回も引き続き、そのことについて、書いてみることにいたそう。

 何度も申しておるが、親鸞さまは、お念仏申すそのこと自体にねうちがあると考えておられる。決して、手段や方法(救われるための手立て)ではない。ただ、念仏申すことによって、柔らかな光の中につつみこまれて、真実の利をいただくことができると味わわれているのでござる。



 つまり、このことは、次のように考えたら納得できるのではござるまいか。
 
自分はいつからお念仏をとなえるようになったのだろうか
いつとははっきり言えないけれども、いつの間にかお念仏が口に出てきて下さってい る。
それは、私のまわりにいてくださったじいちゃんやばあちゃん、父、母、近所の   方々が、私のまわりで称えてくださったお念仏が、私の耳に届き、そして、知ら   ず知らずのうちに、耳の底にたまり、残っていったと===

称えていた方は、私の届けよう、伝えようと思って称えられていたわけではないが、おのずから阿弥陀如来の働きが、その方々の称えられるお念仏を通して、私の届いていたのでござろう。

まさに、「一切の衆生にこの功徳を与ふるになる」証しではござるまいか。

お念仏の声が少なくなってきた分、世の中に鬼や餓鬼畜生が増えてはびこっていると思っているのは、私だけではござるまい。次号では、天台宗の伝教大師 最澄さまのおすすめ下さるお念仏の功徳にふれることにいたそう。

お念仏もうされよ。お念仏もうされよ。お念仏もうされよ。

南無阿弥陀仏、ナモアミダツブ なんまんだぶつ、なんまんだぶ なまんだー。

                               (1997.7 むりょうじゅ162)


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