しんらんさまの不思議な言葉

その25、善悪の二つ、存知せず

 親鸞さまのことについて、歴史の教科書には、おおむね「浄土真宗の開祖。浄土教の思想を深め、悪人正機をとなえた。」と紹介してござる。

「善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや。しかるを世の人・・・・」という強烈な文ではじまる歎異抄第3章は、この欄の第2回目に取り上げたのでござるが、親鸞さまは、この善と悪については、独特の考え方を示して下さっておるのでござる。

ご和讃に「よしあしの文字をも知らぬ人はみな まことの心なりけるを 善悪の字知りがをは、大そらごとのかたちなり」とござるが、善悪の判断をすることが大事とされる道徳的視点からみれば、とんでもないことのように見えるのでござろう。

 それでは、親鸞さまは、善悪をどのようにとらえておられるのでござろうか。

歎異抄第18章(後序)

・・・まことに如来の御恩ということをば さたなくして、われもひとも、よしあしということをのみ まふしあへり。

聖人のおおせには、「善悪のふたつ、惣じてもて、存知せざるなり。  そのゆへは、如来の御こころによしとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、よきをしりたるにはあらめ。如来のあしとおぼしめすほどにしりとをしたらばこそ、あしさをしりたるにてあらめど、

煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもて、そらごと、たわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします。」とこそ、おおせさふらひしか・・・・

意訳
ところが、困ったことに、この如来の御恩ということを問題にしないで、誰もかれもが、善い事をしたとか、悪いことをはたらいたかという現象的、表面的なことばかり論議している。

しかし、親鸞さまの教えでは、「何が善であり、何が悪であるか、そういうふうに、二つに分けて考えることは、自分には到底できない。なぜなら、阿弥陀如来の考えにおいて善しと考えられるところまで徹底的に突き詰めてそれを知ることができたとしたら、それこそ、善を知ったとも言えよう。また、同じように、如来が悪いとご判断になる程度まで徹底してそれを知りえたというのなら、悪を知ったということもできよう。けらども、あらゆろ煩悩に取り囲まれて、真実の見えない凡夫、しかも、火事で燃えさかる家のようにはかないこの無常の世界では、すべてのことがみな意味のないそらごとでたらめばかりで、真実のことが一つもないのに、ただ、念仏だけが真実であるからだ。」というお言葉もあったのです。(野間宏著「歎異抄」より引用

ここには、親鸞さまの「仏法をあるじとし、世間を客人(まろうど)とせよ。」という考えがしっかり備わっており、すべてのものさしを如来さまのみ教えではかられた親鸞さまの独特の考えが出ているのでござる。ついつい世間にながされて、真実を見失いがちな我々に800年もの昔から、警鐘を鳴らしておってくださったのでござる。  
                         
(1997.12むりょうじゅ167)

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