しんらんさまの不思議な言葉 「安養の浄土に還帰すといえども、和歌の浦わの片男浪のよせかけよせかけ帰らんに同じ。一人いてよろこばば、二人と思うべし。二人いてよろこぶ折は、三人と思うべし。その一人は、親鸞なり。」 という御臨末の書からの引用でござる。 一人いて悲しむ折・・・でもなく、一人いて苦しむ・・・折でもない。 よろこびにもいろいろござる。世俗、的なよろこびは、ほとんど欲望の充足であろうと思われるのでござるが、よろこびの内容によって、その人の価値観がわかるといっても過言ではない。ごちそうを食べること、宝石を手に入れること、いい服を着ること、山に登ること、花を育てること・・・・・・ それでは、浄土真宗の信心の行者のよろこびとは、何なのか。これが、今回のテーマでござる。 ・のどが渇いてたまらぬ時、つめたくておいしい一杯の水が与えられる。 丸々生きても70年か80年、せいぜい100年。やがて滅びゆく肉体が、一時的に救われてさえ、大きなよろこびが得られるのでござる。 まして、多生にも逢い難き弥陀の本願に遇わせていただき、未だつかんだことのない絶対の幸福を恵まれた時(信心を獲得:ぎゃくとく:した時)、その時のよろこびは、何ものにも代えることはできない。 親鸞さまは、このよろこびを、「広大難思の慶心」(教行信証)とか「獲信見敬大慶喜」(正信偈)と表現され、広かったぞ、大きかったぞ、想像を絶する驚天動地のよろこびがあったぞと叫んでおられるのでござる。 「安養の浄土に還ることのできるよろこび」この阿弥陀如来のお約束(ご本願)こそ、苦しみや悲しみが転じられ、おかげさまと人生を明るく生き抜くエネルギーとなるのでござる。 一人いてよろこばばb二人と思う生活をされた方は、歴史上、数限りなくござるが、浅原才市さんは、そのよろこびを |
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