しんらんさまの不思議な言葉

 

その7、喜べないままの喜び

喜ぶべきことを喜べない。それが喜びにつながる。!?
ほんとに、なんのこっちゃ?でござる。

「喜べないまま喜ぶ」そんなことがあり得るのじゃろうかと思われる方もござろうが、これは、嘆異抄の第9章に、そのわけがくわしく書いてござる。
唯円さんの問いに対しての親鸞さまの心の述懐でござる。例によって、藤岡正英師の「私の嘆異抄」から引用してみることにいたそう。

一つ、「お念仏称えておりますが、少しも躍り上がるような喜び心がわいてまいりません。また、早くお浄土へ生まれたいととの思いもございませんが、どのように心得たらよろしいのでございましょうか。」とお尋ねした時、親鸞聖人は、次のように仰せられました。
 「唯円坊よ、そなたもそのような思いでありましたか。実は、この親鸞もまったく、そなたと同じ思いなのです。地獄より行き場のないこの私が、如来さまの独り働きで救われ、ただちに弥陀の浄土に生まれさせていただくということは、よくよく考えてみれば、天におどり、地におどるほどに喜ぶべきことです。それが、喜べないのですからこれこそ、「浄土往生(お浄土に生まれること)は、疑いなし。」と思わねばなりません。喜ぶべき心をおさえて、喜ばせないのは、煩悩の仕業です。阿弥陀さまは、このことをとっくにお見通しで、「煩悩具足の凡夫(数知れない苦しみや悩みの種を身にいっぱい具えたこの私)を救おう。」と、優れた誓いをおたてになり、それを成しとげられたのですから、この私こそがご本願のお目当てと、ますます頼もしく思えることです。
「早くお浄土へ生まれたい。」と思えないのも煩悩の仕業。また、ちょっと病気でもすると「死ぬんじゃなかろうか。」と心細く覚えるのも煩悩(身を煩わせ、心を悩ますもと)の仕業です。はてしない過去世からこれまで、生まれかわり死にかわりしてきた迷いの旧里(ふるさと)は、離れがたく、まだ見ぬ弥陀の浄土は、少しも恋しくない。・・・・これこそ、煩悩盛りの姿というべきでしょう。
 去りがたく名残惜しく思っても、娑婆の縁が尽きたならば、いやおうなくこの世を旅立ち、お浄土へは生まれるのです。早くお浄土へ参りたい心のないものをこそ、阿弥陀さまは格別にあわれんで、真っ先にお救いくださるのです。だから、躍りあがるほどの喜び心がないと悲観することは決してありません。このような私をこそ、お救いのめあてとされる阿弥陀如来の本願を信じ、「往生はまちがいなし。」と確信すべきです。躍り上がるような喜び心もあり、早くお浄土へ参りたいという思いが、もしあるならば、「自分には煩悩がないのではなかろうか。如来さまのお救いにもれるのではなかろうか。」とかえって心配もおころうというものです。」と。
 煩悩がもえさかる私であるからこその阿弥陀さまのお目当てじゃった。
そこが、喜びにつながるのでござる。

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