しんらんさまの不思議な言葉


その8、何ものも念仏者をじゃましない。


 「念仏者は、無
碍の一道なり。そのいわれいかんとなれば・・」嘆異抄第7章のことばでござる。

「一つ、お念仏を喜ぶ者には、何にも障害となるものはありません。これを、障りのない道といいます。なぜなら、お念仏喜ぶ人を、天の神や地の神も敬われ、悪魔や外道も邪魔することができないからです。また、つくりとつくる悪業(悪い行い)も、悪い結果をひくこともできず、どのような善も、これに勝るものはないからです。」

 建築関係の方から、「お墓を動かすので・・・井戸を埋めるので・・お祓いを」

とたのまれることがござる。

 お祓いをしないで工事をしたばっかりに熱が出てふるえがきたとか、腰が痛くなったとか、・・・そして、お祓いをしたら、ケロッとなおったとか・・・

そんなバカな話があるかと思いつつも、よく考えてみると、昔、「山に入る時は、ナンマンダブツば、称えて行けよ。」とお年寄りの人が、よく言っていたのを聞いたことがござった。

 浄土真宗は、お祓いはしない宗旨でござるが、お祓いと考えるより、弥陀のご本願をいただく真宗門徒は、次のように考えてはいかがなものでござろうか

 お念仏は、報恩感謝の心が肝要で、何かを求めたり、お祓いをするという気持ちで称えるものでなく、お念仏に込められている広大無辺の功徳を有り難く思って、ほめたたえながら称えることが大事ではござるまいか。それは、下記のような親鸞さまの現世利益和讃に述べられている通りだと思うからでござる。

 私の口から出てくださるお念仏という仏さまは、ナモアミダブツという声になり、人間の苦悩や悲しみを連れて、一緒に出てくださるばかりでなく、その一声一声のお念仏が、何ものにも邪魔されず、さえぎられるもののない境地を開いてくださる大きな力となり、エネルギーとなるのでござる。

 まさに、念仏は、無碍の一道でござる。      (1996.6 むりょうじゅ149号)

現世利益和讃・・・三帖和讃の浄土和讃に編入されてある十五首。期待してはいけないが、念仏者に自然に備わる現世の利益を和讃されている。

A    山家の伝教大師は、国土人民をあわれみて、七難消滅の文には、南無阿弥陀仏をとなふべし

A 阿弥陀如来来化して、息災延命のためにとて、金光明の寿量品、ときおきたまえるみのりなり

B    南無阿弥陀仏をとなふればこの世の利益きわもなし 流転輪廻の罪消えて定業中夭のぞこりぬ

C    一切の功徳にすぐれたる南無阿弥陀仏をとなふれば 三世の重障みなながらかならず転じて軽微なり

D    南無阿弥陀仏をとなふれば 梵天帝釈帰敬す 諸天善神ことごとく よるひるつねにまもるなり

E 南無阿弥陀仏をとなふれば 四天大王もろともに よるひるつねにまもりつつよろづの悪鬼をちかづけず

E    南無阿弥陀仏をとなふれば 堅牢地祇は尊敬す かげとかたちのごとくにて よるひるつねにまもるなり

G 南無阿弥陀仏をとなふれば 難陀跋難大龍等 無量の龍神尊敬し、よるひるつねにまもるなり

H 南無阿弥陀仏をとなふれば 閻魔法王尊敬す 五道の冥官みなともに よるひるつねにまもるなり

I 南無阿弥陀仏をとなふれば 他化天の大魔王 釈迦牟尼仏のみ前にて まもらんとこそちかひしか

J 天神地祇はことごとく 善鬼神となづけたり これらの善神みなともに 念仏の人をまもるなり

K 願力不思議の信心は 大菩提心なりければ 天地に満てる悪鬼神 みなことごとくおそるなり

L 南無阿弥陀仏をとなふれば 観音勢至はもろともに 恒沙塵数の菩薩と かげのごとくにみにそえり

M 南無阿弥陀仏をとなふれば 無数の阿弥陀ましまして 化仏おのおのことごとく 真実信心まもるなり

N 南無阿弥陀仏をとなふれば 十方無量の諸仏は 百重千重囲繞して よろこびまもりたまふなり

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