城江井樋
出水口
中間の空気穴
入水口
入水口
出水口
 有田川右岸の二ノ瀬の水田へ水を引くため、
嘉永3年(1850)岩をくりぬいて、トンネルを
掘ったものである。子ども一人が通り抜けられるくらいの穴で、約120メートルの長さである。
 120メートルといえば、60間、1間1両で請け負ったというから、60両の費用がかかったことになるが、何人もの人夫が途中で逃げ出したり、落盤で命を落としたり、大変な工事だったと聞いている。 
 漢学者草場佩川(くさばはいせん)が書いた碑文が入口付近にあったが、いまは、山田神社の境内に移された。その記念碑(注1)に「馬頭」樋
という文字があり、桃川の馬ン頭(サイフォン)式を参考に作られたようである。
 詳しくは、西有田町史上巻(P276〜278)をご覧ください。
 こもあれ、先人の着眼、行動には、感激するばかりである。
ももちゃんの西有田史跡マップ
注1: 記念碑碑文

松浦郡有田郷山谷村爽水有田各分渠漑之水東有石崖阻渠故設馬
頭槭以取水西之水其脩造之費率無虚為村民患焉嘉永
年間鍋島種邑為郷宰庚戌春為相謀命工鑿崖腹
五十歩以通渠流永使灌漑巧亦偉矣時
余攝郷中教導事故聊紀歳月繋之以詩
  昔役五丁徒夸巧 今看(ザン)鑿利三農   〈ザンサク:穿かれた穴〉
  無間然處能盡力 其所無事況有庸    〈三農:山地平地水辺の農業。農業農村農民〉
  要知遺澤千秋後 水汪汪分流不窮
                  草場クツ(革へんに華)撰并書

 松浦郡有田郷の山谷村には爽やかな水があり、田畑を潤している。
 この水は東にある右側の崖が粗雑だったため
 馬頭を設けて水を仕切って水を取り出し西へ流していたが、壊れたり、大水で流されたりして
 その修理のために 多くの費用が掛かっていたため、村民は大変困っていた。
  嘉永年間、佐賀の鍋島種邑が有田郷の宰相として赴任し、庚戌(嘉永3年)の春、
 相談しつつ工事を命じて崖腹を穿ち、五十歩の渠を通し以って灌漑に使い
 その仕事は、巧みて偉大だった。
 時には村のものを教え導きつつ、いささか事故もあったが、歳月之をつなぎ、以って詩う。

 昔の役(仕事)五丁徒に巧をおごる。今、?鑿(ザンサク)を看、三農(山地平地湿地)を利す。
 その間、然る処よくその力を尽くし、其の所事なきを得、 況や役に立つことこの上なし、
 知るべし、遺された澤はその後千年に及び、水はとうとうと分かち流れ、窮することはない。