曲川神社
曲川小学校の伊東優理さんたち3年生から、曲川神社の由来を尋ねられたので、宮司の椎谷智周さんに電話でお聞きしたら、次のような文書をいただいたので、掲載させていただきます。
       曲川神社について

 旧有田郷(二里町、西有田町、有田町)を領していた松浦党・有田丹後守(ありたたんごのかみ)が、唐船城主(とうせんじょうしゅ)のころ、四大家老の一人、庄山伊勢守(しょうやまいせのかみ)「源高」(みなもとのたかし)は、曲川村上本村の岩谷の地に砦(とりで:山城)を築きました。城の守護神として、唐船城の守り神であった山田野三所大権現(やまだのさんしょだいごんげん:現在の山田神社)より分霊を戴いて、岩谷権現社を創建しました。天文5年(1536)のことです。
 明治6年、現在の地に遷り、社名を[曲川神社」と改めました。
その時に、上本村、下本村の有志が協議を重ねて、上本村が神社の境内地を無償で上地(奉納、提供)し、下本村がその後の神社の維持管理を奉仕することになりました。
 曲川地区の安全・五穀豊穣・地域産業の発展・住民の健康息災を祈願して現在に至っています。
 祭神は、「伊邪那岐神(いざなぎのかみ)」「伊邪那美神(いざなみのかみ)」の夫婦の神様です。
 社紋は、曲川小学校の校章と同じ『橘(たちばな)』です。
年に3回の大祭がありますが、4月に行われる「曲川桜権現まつり」には、多くの人が集まって賑わいます。境内・桜ヶ丘公園には、約三百本の八重桜があります。

桃谷先生へ 
                                 椎谷
参考に  下本村の逃げ餅について

逃げ餅(にげもち、にげんもち)について
 下本村区においては、毎年11月22日夜中の行事として「逃げ餅」が伝承されています。戦国乱世に、松浦郡に割拠した松浦氏と彼杵郡を本拠とした大村氏は、その接点になる早岐地方を争奪しましたが、隣接する曲川地区も、この渦中に遭遇、天文年間(1500年代中ごろ)のある年、11月22日は、大村勢(有馬勢も含む)に急襲されました。
 住民は、明日の祭事の餅つき最中この変事におどろきあわてて、つきたての餅を持って逃げましたが、その時、落としたり、拾ったりで大いに混雑しました。
 しかし、岩谷城(砂門城:さもじろ)は、なんとか持ちこたえて、敵は退去したため、岩谷大権現の御加護と、以後、「逃げ餅」「泥餅(どろもち)」の例を続行してきたといいます。
 また、民族研究によれば、つきたての餅を最初に大地にころがしてそれに土が付着して大地の霊が宿ったものをいただけば、延命長寿にあやかり、次なる豊穣の予祝い(前祝)にもなると期待した原始農耕儀礼の一つであるといいます。これらの言い伝えが合わさって、現在行われている行事になったのでしょう。
 今は、この餅を各家々に持ち帰り、神棚やご仏前にお供えして、新しく迎える年の福運と家族の息災を願っています。  
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