無記
2014.12 桃谷法信
11月10日 大好きだった俳優、高倉健さんが往生の素懐をとげられた。83歳。
高倉さんに直接会ったこともしゃべったこともない。
しかし、映画の中やインタビューの受け答えの中で感じることは、男が男に惚れるということを、実感させてくれる存在だった。
スクリーンの中の高倉さんは、寡黙でどこか陰のある役柄を演じられることが多かった様に思う。
撮影本数を重ねられるたびに、世の中に埋もれて誰に知られることもなく誠実に生きる一人の男を演じられる、まるで、山奥にひっそりと咲く山つつじのような咲き方を彷彿とさせる作品が多くなった。決して、一世を風靡する華やかな人物を演じられることはなかった。
彼をスターダムに押し上げたのは、「切ったはった」の任侠路線ではあったが、そこから脱皮した(実際、撮影現場から逃避された3か月のことを小林稔侍さんが証言された。)彼の演じ方は、不器用さのいぶし銀的鈍く光る得体の知れぬすごさを秘めていた。
彼が亡くなった後のメディアの取り上げ方は、共通している。
私生活を語らず、礼儀正しく誠実であること、義理人情を大切にし、偉ぶることをせず・・・・
印象的な番組は、スマステに生出演された時の健さんのインタビューで、香取慎吾さんが、私生活に触れるような質問をすると、即座に「教えません。」ときっぱり。(それも笑いながら)
生放送収録後、コーヒーを飲みながら、健さんからのアドバイス(警官やサルをやってるんだろ。若いうちは何でもやれ。)されたことに触れ、番組の中では叱られたが、後でそれをフォローして下さることへの感謝の念を公表した。
また、23日曜と24月曜の朝に放映されたNHKスペシャルでは、インタビューの質問に、しばらく間をおいて答えることがしばしば見られた。質問の内容にもよるが、彼の沈黙(間)は、言葉を選んだり、考えをまとめたりする自分の都合のための沈黙ではなく、相手がどう受け止めるか、カメラの向こうの視聴者が傷つくことの無いような言葉を選ぶための沈黙であったように僕には感じられた。その思いやりが、出会う人、出会う人の心に響くのだと思う。
先月号の「言葉を味わう」で、沈黙という言葉に触れたが、言わないほうがかえって言いたいことを雄弁に物語る場合が多い。高倉健さんは、そのことを姿勢で教えてくださった。
語り、歌、会話、セリフ・・・・沈黙(間)の取り方で、伝わり方が違ってくる。自分の言い分をぺらぺらまくしたてるだけで、相手の受け止め方を考えない、間の取り方のわからない人のことを「間抜け}という。僕を含めて、いかに間抜けの多いことか。これからは、少しでも高倉健さんに近づく努力をしていきたいと思う。
お経の中に、しばしば登場する「無記」という言葉は、質問する弟子たちに対するお釈迦様の答え方の一つだ。
「宇宙にははてがあるのでしょうか?」とか「霊魂は存在するのでしょうか?」というような質問に対して、お釈迦様の答えは、「無記」」。つまり、沈黙して、答えられなかったということである。
心の解放や四苦八苦からの解脱にそのような質問はいらないというお釈迦さまの答え方、それが「無記」なのである。
日常の会話の中でも、すぐに応答せず、しばし沈黙して、一緒に考えることも大切にしたい。それは、お釈迦様の示してくださった「無記」につながるように思えるからである。
報恩講について
浄土真宗を開かれた親鸞聖人のご遺徳を偲び、聖人が伝えてくださったみ教えを聞いていく「報恩講」。西本願寺では聖人の祥月命日(1月16日)に合わせ、御正忌報恩講(1月9日〜16日)が営まれます。法泉寺では1月10〜13日。
これに先立ち、全国の門信徒宅で「お取り越し」と呼ばれる報恩講シーズンが到来します。俗に「ほおんこさん」と呼ばれ、お正信偈をあげて、御伝鈔を聴聞する習わしになっています。
法泉寺では、11月の終わりから正月にかけて、「お取り越し」報恩講にお参りさせていただきます。仏具のお磨きや仏壇のお掃除、打ち敷をかけたり、五具足にして荘厳するなど、浄土真宗の一番大切なご法事と心得て、準備をしていただければありがたいです。
●主な日程は、次のページに掲載しています。
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お取り越し報恩講の日程
下記の様に予定していますが、ご希望があれば、お電話下さい。
・11月下旬〜12月中旬・・・ご希望に応じて。
*12月14(日)〜20(土) 原明、下本、佐賀方面
*21(日) 佐世保方面
*22(月) 岩谷
*23(祝・火) 迎、舞原、その他
*24(水)〜28(日) 有田、大山方面
言葉を味わう
H凡夫
(ぼんぶ)
「どうせ、凡夫やから」と言い訳しながら生きていく凡夫。
親鸞様によると、
凡夫は、命終わるその瞬間まで、煩悩から離れられないものを言い、すべてのことを自分中心に見て争いを起こし、欲望・怒り・妬みに心と身体を悩ませ苦しみ続けるものと言われる。
そして、凡夫は自分が凡夫であることの自覚がないのです。
自分が凡夫であることがわかるのは、仏法に出会った時で、煩悩に満ち満ちているのは、他の誰でもない、自分自身であったと気づかされ、仏さまの光によって、自分の影が認識されるのです。煩悩まみれの泥凡夫という自覚が生まれたとき、同時に仏の救いがそこにあることも発見できるのです。法然様や親鸞様は、そこに気づかれ、凡夫を救うはたらきは、阿弥陀如来以外にはできないと、絶対他力の御本願をいただかれたのです。
12月の予定
●終いお講
13日(土) 今年最後のむりょうじゅ会は、終いお講です。
女性部お斎(とき)の接待があります。
かけあいやおよごし、バタ卸のお味噌汁など昔ながらのご馳走があります。 午後6時ごろからです。
そのあと、7時ごろからお勤め、法話と続きます。
●除夜会〜元旦会
31日大晦日、除夜の鐘を撞きに来て下さい。
引き続き、新年の元旦会をお勤めし、恒例の福引きです。
お誘い合わせて、お参り下さい。
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