迎の原古窯跡
迎の原遠景
古窯跡
西有田町仏の原
江戸時代初期に有田地方ではじまった磁器の生産は、わが国の焼き物史上、画期的なことであった。迎原上窯と呼ばれる本窯跡は初期の窯跡として重要である。
昭和46年に発掘され、焼成室を13室もつ階段状連房式登り窯が発見された。全長は、27メートル、焼成室の大きさは、平均で奥行き2,1メートル*幅1,9メ−トルであった。保存状態も良好で、各室の壁はもちろんのこと、火床分焔柱なども良く残っていた。また、第12室最上部の焼成しつは、煙り出しの痕が残っていた。
このように古陶磁器の窯構造を知る上で、良好な例といえよう。
 焼成された焼物は、陶器と磁器があり、すべて砂目積技法によっている。その中で菊花型に型打ちし、見込みに菊花一輪を呉須で描いた皿が目を引く。この他に家屋や山水を描いた磁器皿もある。
 迎原古窯は西暦1620年代に操業を始め、鍋島藩による窯場の整理統合により、廃窯されたものと考えられる。
  平成九年三月  西有田教育委員会
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 原明窯跡群で磁器の生産が始まったが西有田で、次に始められたのが、この迎原窯だといわれています。
 仏の原下迎原にあり、昭和50年に発掘された。全長26,4メートル階段式連房登り窯で12の焼成室が確認されています。
 陶器と磁器を生産していたらしく、古唐津系のぐいのみや碗、皿などが出土したようです。
 半分は、磁器で、染付けの碗、皿で、菊花形に型打ちされ、見込みに菊花を描いた皿は、この窯の製品の特徴です。
 寛永14年(1637年)、鍋島藩は、山々を切り荒らすことをその理由に、伊万里、有田の唐津系陶器を生産する陶工を追放し、「唐人筋」の陶工たちの窯を、上有田地区に統合しました。磁器の収益性が高いことに目をつけ、管理を強化することで、生産性を高めようとしたのでしょう。
 この措置によって、西有田地区の窯は、廃窯に追い込まれました。
 原明や迎原だけでなく、広瀬向窯、竜門へのダム周回道路にある窯跡やそのほか、たくさんの窯跡が、そんな運命をたどったのでしょうね。
 時の権力者は、いつの時代でも、純粋にひたむきに働くものを犠牲にして、大儀を保つものなのでしょうか。