釈迦三尊の梵字の下に、正平二十⁂念と刻銘された板碑が残っていたが、昭和28年になくなって、いまだに発見されていない。
梵字の中央は、Bhah(釈迦如来)、左の脇侍は、Bhai(薬師如来)、右は、Ham(不動明王)とあった。
普通、釈迦三尊は、脇侍が普賢菩薩と文殊菩薩であるが、この中十里の釈迦三尊のような脇侍は、
他に見られない。
正平二十四年は、1369年で、南北朝時代の中ごろに当たるが、まわりの田んぼからたくさんの五輪塔の断片が出土していることから、南北朝にまつわる合戦があって、相当数の人員が討ち死にしたと思われ、それを本村の住人が供養していたのではないかと推察される。
また、下本では、11月の22日の夜に「逃げ餅」の行事が残っている。伊万里市の大里地区の「取り追う祭り」も同じ時期に行われ、南北朝の由来から関係があるのかもしれないが、下本は餅を,大里は御供さん(握り飯)を奪い合うお祭りで、南北朝の騒乱の名残とも思われるが、今後の研究課題である。
*参考、大里の「鳥追う祭り」12月の卯の日の前夜、に行われる行事。
南朝方の菊池武重(きくちたけしげ)が足利(あしかが)方に敗れてこの地で神官になり、再起を期して火中訓練をしたのが始まりと言われていますが、御供さんを配って豊作に感謝する収穫祭と思われます。