しかし、その伝説には、疑問に思われるところが
多々見受けられるのです。
?その1 なぜ、川のそばに腰かけ石があるのだろうか?
?その2 なぜ、身重のお才や5才の長男勝之助を同道したのか?
?その3、栗木峠や他の道を通らなかったのはなぜ?
夫、山本右京の注進より、早く、相浦の飯盛城に事の急を告げたことの不思議は、
諸説があり、伝説や語り継ぎによって、不思議物語として、聴くものや語るものを
興奮させながら、伝わってきたのでしょう。しかし、どこをどう通ってお才峠まで行ったのか、この腰かけ石伝説を手掛かりにして、推論してみようと思います。
まず、山本右京の屋敷がどこにあったのか、
現在の大木宿、桑の木原、山本のあたりは、川野村という地名であったそうですが、現在の山本地区あたりに住んでいたのではないかと推察できます。それは、有田盛(左高)の目付役として、早くから有田唐船城に赴任していた山本右京が、いち早く、相浦の飯盛城に急を告げる場所といて、最適の場所ではなかったかと考えられるからです。
次に、急ぎ隠密裏に急行できる行程と言えば、栗木峠を通る山道ではなく、川筋を遡って分水嶺に到達できる間道を、前もって調べ、ことが起こった時には、その川筋を辿ると近道であることを認知していたと思われることです。
そのことは、現在の有田町役場の南を流れる曲川校区と大山校区の境目にある柄杓川を辿って、内野川へ出ると、お才さんの腰かけ石にたどりつくことで想像できるからです。 また、山本右京が、家財道具はそのままにして、わずか5歳の一子勝之助、身重のお才を同道したのは、事の急を告げることが、命懸けの一大事であったからだということになります。
時は元亀2年(1571)、織田信長が比叡山を焼き討ちにした年の暮れです。
大雪の日であったと「印山記:左高(盛)の陰謀と山本右京の亊」には記されています。
そして、あけて、元亀3年正月2日から20日にかけて、、西ノ岳を越えた柚木の相当(稲)原にて、有田勢と相浦勢の親兄弟親戚が敵味方の分かれて戦ったのです。
山本右京は、遠矢で倒した武将が、わが父であったことは、五逆の罪を得たりといって、柚木の藤山神社の山王山にて、腹を切って果てたそうです。
勝負は、相浦勢の勝利に終わり、有田勢は、四十人ほど討ち死にされ、心やすからず有田へと引きあげたそうです。
このような背景の中で、「お才さんの腰かけ石」の?1,2,3の謎が解けたと思うのは、独りよがりでしょうか、先輩諸氏のご鞭撻を切に願う次第です。
内野川沿いのこの道をたどって 西ン岳を目指したと思われる。 遠景は、西ン岳のお才峠あたり) 左側の薮の中に、腰掛石がある。 |
腰掛石の祠 |
お才の腰かけ石 |