お顔のない六地蔵様

ももちゃんの西有田史跡マップ

 下内野の公民館横にお顔のつぶされた六地蔵さまがあります。
新しいものは別にして、古くから遺されているものは、ほとんど、お顔がつぶされたり、頭のないものが多いようです。これは、風化したり、自然になくなったものではありません。
 慶応4年3月13日太政官布告の神仏分離令によって、廃仏毀釈運動が全国的に展開されました。仏教を廃止し、釈迦の教えを棄却する動きは、寺請制度によって支えてきた徳川幕府の民衆支配に対する明治新政府の方針だったのです。
 薩摩藩などは、新政府の中心だったので、特にひどかったようで、1616ケ寺が廃寺となり、3000人近くの僧侶が還俗させられています。
 安徳天皇や平家を祀っていた下関の阿弥陀寺(耳なし芳一伝説のお寺)も廃され、赤間神宮になりました。
  奈良の興福奈良の興福寺の五重塔も25円で売りに出され、薪にされそうになったと言います。
 程度の差こそあれ、明治政府の強権的な施策で、どれほどの仏像や国宝が失われたか、イスラム国の横暴と似通っています。
 全国各地で、吹き荒れた廃仏毀釈の動きは、大きなお寺だけでなく、路傍の観音様やお地蔵さまにも被害が出て、誰がやったのか定かではありませんが、仏像の首を取ったり、顔をつぶしたりして、その流れに民衆も流されたのでしょう。
 上記の下内野の六地蔵さまも、その流れの中で、お顔をつぶされて、無残な姿になっておられます。
 そのほか、有田町内にも首がなかったり、お顔がつぶされたお地蔵さまや観音様が多数見受けられます。下の写真は、下本にある中十里にあった五輪塔の破壊されたものと胸から上のないお地蔵様です。
 
    

上体のない観音様(中十里)  首のないお地蔵様(中十里)  正覚さんの石碑(大山小裏)

大山小学校裏の墓地の入り口にある「正覚さんの碑」も金づちかゲンノウで叩かれたような割れ方をした石碑があります。