地元の人は「さもじろ」と呼びます。
ここにあったという断定はできませんが、
西川静生さんの裏手にあったと予測されます。
南健次さん宅の裏に「さもじろの堤」があります。
松浦党の本拠、山ン寺城の出城で、庄山一族の
配下に置かれていたそうです。
部下には、南、岩永等の氏があり、岩谷ムラに
住み着いたのでしょう。
砂門城の北を「北川内」(きたんこうち)
南を「南川内」(みなみんこうち)といいます。
岩谷の坂を下ったところを「権現山」と言います。
今の西川豊さん宅や西川由記さん宅の裏手です。
権現さんは、その後、法泉寺に置かれ、公民館
(三葉館)が新築されたときに、公民館の北に移され、2002(平成14)年の道路拡張に伴い、公民館の西に移転しました。
権現山といわれたところから下を「岩山」「保立」その下を「迎」と言います。
敵を迎え撃ったのか、客を出迎えた所からか定か
ではありませんが、ともかく「迎」という小字です。
 迎から国道202号までの田んぼの中から、たくさんの五輪塔が発見されていることから、戦場跡とも考えられます。その五輪塔は、史跡「中十里」に集められて祀ってあります。
中原(ちゃーば)と呼ばれる圃場(田んなか)をはさ
んで南にある集落の小字を「舞原」(みゃーば)と
言います。江戸時代までは造り酒屋や・・・・・などの店もあり、賑わっていたそうですが、江戸末期の
火事で廃れたと聞いています。
砂門城(岩谷城)

●有田町上本 岩谷城(砂門城)周辺の地図

西有田史跡マップ
博物IN西有田

砂門城(さもじろ:岩谷城)地形図(佐賀県報告書より)

西有田町史上巻706ページに
「岩谷城跡という写真がありますが、
その説明は、次の通りです。
 
「国見連山の中腹に位置し、舌状台地の小高い山の上に築城されていたらしい。現在は、遺構、遺物など残っていない」  と記されています。
ところが、2013年8月3日、ふとしたことから、有田町広瀬の林業家、今泉誠一郎さんから、遺構らしきものがあると聞いたので、案内してもらいました。
 曲川神社から西へ、切楠線を横切り、赤尾鋼材[株]と西川哲也さん宅の間の道を西へ、約500メートル登り、分かれ目から北へ100メートルほどのところに(軽トラ通行可能)北の川内へ下る道があり、そこから東へ10メートルの所に苔の生えた石垣が約5メートルほど残っていました。おそらく、砦か館の遺構の一部ではないかと思われます。
 眼下北東には、北の川内の「唐干田上溜池」が見える所で、上本と北の川内の区境だろうと推察できます。
 写真は、その時のものです。 
砂門城の見張り台らしき所へ
案内して下さった西川豊さん
 眼下には、砂門城の堤があり、
幕の頭、本村全体、黒髪山、青螺山、牧山、唐船城が見渡せる。
見張り台か狼煙台の跡ではないかと推察できる。
苔の生えた石垣の列→
(約10メートル)
←発見者の今泉誠一郎さん

見張り台、狼煙台跡

砂門城の堤