正覚さんの墓
 大山小学校の東北、有田川を渡ったところの田んぼの中にあり、唐船城主有田氏の競馬場あとの一角に「正覚さんの墓」はあります。

 龍泉寺の前身である「普門院」の比丘であった尊映の子を正覚(
せいがく:椎谷孟保氏の三星鑑によれば、清学坊と記されている)といいました。正覚さんは、龍泉寺の二代目の覚胤の別名であると言われていますが、どういうトラブルがあったのか定かではありませんが、「正覚は、殺生や飲酒をしている」と噂が立ち、魚の骨などを床下に投げ入れられて、いじめにあいました。(西有田町史には、相続問題で信徒とトラブルがあったと記されています。)
 正覚は、寛文7年正月、黒髪山の大智院の年頭法要の後、龍門で、そのことに抗議の意味を込めて、首を吊って自殺しました。

 墓は、初め、大山小学校の北、給食室の入口の道の角に建てられたそうで、今も石碑は残っていますが、その墓についても、地元の人たちが反対したので、伊万里市二里町川東の素封家、西岡氏が、自分の土地であった牧の入口の現在地を提供されたそうです。

 *ちなみに、普門院が龍泉寺と改名されたのは、干ばつの時、雨乞い祈願中に竜が現れて雨を降らせたことからだそうです。
また、普門院は、有田川に橋がなく、飛び石で渡っていたので、水かさが増すと渡れずに不便だったことから、現在の龍泉寺へ移っています。
 蛇足ですが、明治29年までの元禄年間に建てられた本堂は、現在町内上本の法泉寺本堂として移築されました。
牧の小野さん宅の横の道を入ったところ
ももちゃんの西有田史跡マップ
正覚さんの石碑
大山小給食室の
入口の角にある。
 町史の写真は、左上部が欠けていない。なぜ、いつ、欠けたのだろう