上本村の堤 @さもじろの堤
 圃場は、早苗が生き生きと天を指している。
耕し、水を引き、代掻きをして、やっと田植えになるが、昔から水に関して全国各地でも、水争いや、旱魃の対策が講じられてきた。
 上本村には、「封通さん」という役がある。
田んぼの水の必要性に応じて、堤の栓を管理する仕事である。
上本村には、堤がたくさんある。その一つ一つを管理するのが封通さんである。
 では、堤のできた様子からみてみよう。
1、砂門(沙門)城(さもじろ)の堤
南昭彦さん宅と南武士さん宅の間の道を、北へ50mばかり行った所にあるのがサモジロの堤である。
 その堤の入り口に石碑が立っている。

本村者古来水乏加大旱荐臻民患
之久矣適強欲築新池然工事費巨額
豈一色所能及耶遂請補助於官廰
時西山十兵衛氏任在縣會議員氏
最尽力其間漸以得諸是以明治三
十年十月起工同三十二年三月告
工成於是旱害全絶民被其澤可詔
大矣因刻石為記念
上記碑文を読み下してみよう。
「本村は、古来、水乏に加えて、大旱魃、しきりにいたり、
民、之に患うこと久し。たまたま新池を築くことを欲すれども
工事費巨額。豈一色能及(?)か、ついに官庁に補助を請う。
時に西山十兵衛氏県会議員に在任、氏、最も力を尽くしその間
漸く以って諸々を得。是を以って明治30年10月に起工。同32
年3月を告げ工、成り、是に於いて旱害全滅し、民、その澤を被り
詔は大。因って、石に刻し、記念と為す。」
石碑
砂門城の古戦場跡:五輪塔の一部
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西山十兵衛氏について
この石碑にある西山十兵衛氏について
西有田町史(下)には、次のように記されている。
明治22年5月〜30年9月
明治35年3月〜36年8月
明治36年12月〜37年5月
明治44年9月〜大正元年12月
大正11年6月〜15年6月
この5期38年にわたって、曲川村の村長を勤められ
明治30年10月より県議会議員になられた。

明治30年10月1日の佐賀自由新聞によると
「一夕晩餐せんとて、或旗亭に上れば、隣室2,3人の人あり。
喃々話あり。聞くともなく漏れ聞きたるまま貴紙の余白を借り
世の一笑に供せん。という前文のあとに
『曲川村長役の人は、村長はしておらんだろ。だって、365日
一度でも、役場で見たこいないもん。常置委員(明治16〜29
年の県議会議員の役職)さんな、きけたもんさ。』

昭和24年1月14日に逝去されているが、その葬儀の折、各
方面から寄せられた花輪は、「自宅から淨源寺までの道筋300
メートルの両側をびっしり埋めた。」と記されている。