「彼岸すぎまで」という夏目漱石の小説がありますが、その後どう展開するのでしょうか?
 今年の春の彼岸会は、法座を中止したり短縮したり、延期したりするお寺が多い中で、法泉寺は、予定通り三日間四座お勤めさせていただきました。お参りいただけるか心配しましたが、たくさんのご参詣、尊いことだとありがたく思いました。
 新型コロナウイルスの感染防止のために、様々な行事やイベントが中止に追い込まれました。為政者の決断は、確かに重いものがありますが、社会全体への影響は、人知の想像をはるかに超え、自力作善(じりきさぜん)の限界を如実に示しました。
 学校の休校、渡航制限、医療機関の困惑、イベントの中止、流言飛語、物品不足、流通の停滞、株価暴落、財政出動・・・社会不安が出口のないトンネルで徐々に進行しています。
 目に見えないコロナウイルスは、どこまで追いかけてくるのでしょう。人間はそのことに対して、戦うのでしょうか、逃げるのでしょうか? 新薬が開発されたり、ワクチンができるまで、辛抱するのでしょうか?手洗いやうがいを励行し、マスクを着用して、なるべく外出を控え、ストレスをため込んで、じっとしている他に為す術はないのでしょうか。
「なるようになるさ、明日は明日の風が吹く。」そう思うことが、大きな救いや慰めになるのではないか、良寛さまの「災難に遭う時は遇うがよろしく、死ぬときは死ぬがよい。」と考えたほうが、安心できるのではないか、そんなふうに思います。
 弥陀の誓願、摂取不捨の左訓に、親鸞さまは、「逃げるものをば、追わえ取るなり」と書いて下さっています。
 鸞という鳥の雛(ひな)が逃げ回るのを、親鳥が追いかけて、えさを与え、懐に抱き抱えるのを、例えて、阿弥陀如来の「摂取不捨(摂めとって決して捨てない)」の願いであると示してくださっています。









「鸞」という字は、尊敬される曇鸞様からいただき、息子にも善鸞と名付け、仏の願いに背を向け、逃げようとする親鸞さまを追いかけて、摂めとって下さり、決して捨てはせぬぞという阿弥陀如来のご本願を常にいただくための名乗りだったのでしょう。
 逃げるものとは、「無明煩悩、我らが身に満ち満ちて、欲は多く、腹立ち、怒り、嫉(そね)み、ねたむ心多く、隙なくして、臨終の一念に至るまで、とどまらず消えず絶えず、・・」と私たち凡夫(親鸞さまご自身)の姿をしめして、そういう凡夫こそが弥陀の誓願のめあてであったと教えてくださいました。

 コロナウイルスから逃れる働きも、防いでくださる働きも満ち満ちていることにも思いを馳せ、絶対他力の御手の真ん中にあることを悦んで、お念仏させていただきましょう。
 

★4月行事(住職動静)
  2日 有田歴史民俗博物館評議委員会
  8日 栄町うたう会
  9日 上本老人会総会(中止かも)
  13日 むりょうじゅ会 夜7時30分~
     御文章披露(拝見)ヒャーケンサン

  22日 栄町うたう会
  23‐25日 韓国「百婆仙」追悼法要参加(中止?)
   百婆仙は、夫、深海宗伝亡き後、陶工集団を率いて、   有田焼の分業化に尽くされた女性の指導者です。
    その顕彰碑が稗古場の臨済宗報恩寺の境内にあり、   深海家の墓は、浄土真宗西光寺にあります。
    報恩寺の前住職、加藤元章さんは、中学時代の恩師   という関係と、百婆仙顕彰のためにがんばっている、   久保田均さんの勧めで、追悼法要に参列させていただ   きます。百婆仙の顕彰の拠点は、岩谷川内の踏切を越   えた所に「ペクパソン」という工房喫茶があります。
  

 







★「地域の古いもの」④ 
ザンザ節(岳の新太郎さん)
◎出講余話
 小長井の浄真寺の前住、藤川秀昭さんは、同じ年のいとこです。法座の終わった後のお斎の時に、諌早から塩田までの長崎街道の復元に関わったことを話され、その中で、「岳の信太郎さん」のことを教えていただきました。多良岳の中腹にある真言宗金泉寺の寺侍(後に金泉寺第九世賢恵法印大和尚位)で、とても器量がよく、里の娘たちのあこがれの的であったことは、民謡「ザンザ節(岳の新太郎さん)」の歌詞にも歌われるほどでした。
 ザンザ節は、佐賀県の数少ない民謡の一つで、「傘を忘れて山茶花の茶屋に、ザンザザンザ、空が曇れば思い出す。色者の粋者で気はザンザ、アラ、ヨーイヨイヨイ、ヨーイヨイヨイ」と、多良岳一帯のことが歌われています。、
「岳の新太郎さんの①下らす道にゃ、ザンザザンザ、①金の千灯篭ないとん明かれかし、色者の粋者で、気はザンザ、アラ、ヨーイヨイヨイ、ヨーイヨイヨイ」②高木の熟柿、竿じゃ届かず、登りゃえず、③登らす道にゃ、坂に水降り滑らかせ、(坂道を凍らせ、山のお寺に帰したくない)と、いい男ぶりが歌われています。
 その新太郎さんが何故、寺侍だったか? 
 多良岳を越えると大村藩です。大村は、キリシタン大名大村純忠の支配下にあり、時々、仏教関係の施設を襲ったという記録が残されており、また、多良は一時、キリシタン大名有馬晴純、晴信の所領であったことやキリシタン墓地が残されていることなどから、各寺院も寺侍を置いていたとも聞き、歴史の一隅に出会えたような気になりました。多良岳を境にして、東側の佐賀藩領はほとんどが浄土真宗門徒、西側の大村藩領は、日蓮宗が多いのは、何故だか疑問でしたが、このお話で、納得しました。
 ちなみに、北の川内の小辻に、「ナガサキサン」と呼ばれる(隠れキリシタンかどうかわかりませんが)墓が、片渕スミ子さんの家の裏にあります。また、大木神社の境内には、キリシタン灯篭がありますが、キリシタンのお話は、またの機会に致します。


お彼岸がすぎて

 

2020.4 住職:桃谷法信
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