曲川小学校から有田方面への道、消防署の手前、炎博記念堂への跨線橋の下に、石の道しるべがあります。
「有田・武雄道 くろむた ひろせみち」と彫ってあります。伊万里の実業家、松尾良吉氏が,明治19年(1886)から昭和5年(1930)の45年にわたって、佐賀県や長崎県に広く建てられたもので、実数は定かではありませんが、数多く残っています。近くには、二里町金武の有田川沿いに「いまりありた道」「赤坂内馬場 中田炭山道」の石碑があり、いずれも追分(分岐点)に建てられています。道しるべの建っているところはいわゆる旧道で、伊能忠敬の測量隊が調査をしたところです。今でも、所々に旧道の名残はありますが、MR黒川駅東の踏切を渡り、樋渡敏春さんの家を過ぎたところを右折して、山之上四男さんの家までの畑の中の道が、昔のままの道の姿をしています。約400年前に、伊能忠敬の測量隊(文化9年1812の9月14日、伊万里下町から平戸藩木原村境まで)が歩測したのだ、そして日本地図ができたのだと思うとわくわくしてくると同時に、そのような業績を残してくださったたくさんの人々の道しるべのおかげで、歴史が積み重なっていくのだと思うと、しみじみと先達のおかげを偲ばせていただきます。
 ちなみに、伊能忠敬は腹痛のために伊万里津の亀屋(現佐賀銀行の裏の駐車場あたり)で寝込んでおり、有田方面の測量には参加していませんが、測量隊(4名)の一人、箱田良助は、幕末から明治にかけて活躍した榎本武揚(戊辰の役で敗れ、土方歳三らと札幌五稜郭で敗れ、投獄されたが赦され、北海道開拓使やロシヤや清の全権特命大使などを歴任、初代伊藤博文内閣の逓信大臣や黒田清隆内閣の文部大臣)の父上です。 歴史上の有名な人物が、近くの故郷に関わっていたことの不思議を感じます。
 今は、道しるべに変わって、カーナビやスマホのナビが道案内をしてくれますが、迷わないように建てられた道しるべは、旅をするうえで、有難いものでした。











 さて、ひるがえって、私たちの心の道しるべは、何でしょうか? 経験や先輩たちの教え、家訓、など一人一人が判断の基準となるものを持っており、それを道しるべとして、暮らしていますが、その一挙手一投足が、美しさや醜さ、温かさや冷たさを周りの人に与えます。それは、その人の持つ個性とも言えますが、その根底には、その人の性根が座っています。
 親鸞さまや法然様をはじめ、多くの善知識(仏教の先生方)様が、私たちは、煩悩具足の凡夫であると示してくださいました。自分が一番かわいいという思いです。
 欲は多く。怒り腹立ち嫉み妬む心が隙なく死ぬまで続いていく私たちに、道しるべとして、示してくださったものが、お釈迦様の教えである仏教の中の易行道、お念仏だよと教えてくださいました。
 混迷する世相、不安の状態が続く中での究極の救いは、「我に任せよ、必ず救う」という弥陀の誓いに頷いていくことではないでしょうか。今、生かされていることを悦び、南無阿弥陀仏とお念仏を申し、御恩報謝の日暮らしをおくることが大きな安心へとつながります。

★6月行事(住職動静)
  今のままでは、中止ですが、緊急事態が解除されたら、

13日 むりょうじゅ会 夜7時30分~
  10日、24日 栄町うたう会 毎週月曜の「通いの場」
  中旬に予定されている「下山谷サロン」も未定。
  
 厚く御礼申し上げます。
 先月号で、「べんじゃらきっず」のサポートをお願いしていましたら、全国のむりょうじゅの読者や知り合いの方々から、心温まる応援をいただきました。スタッフの方々も大喜びで、なんとお礼を申し上げてよいかと感激されました。100名を超す方々から届けてくださったり振り込んでいただいたりで、なんとか、このコロナ禍を乗り越えられそうです。衷心より厚く御礼申し上げます。ありがとうございました。










★新シリーズ「地域の古いもの」⑥
●「キリシタン灯篭」(大木神社と龍泉寺)
 
 肥前鳥居で有名な大木神社の社殿の右奥にキリシタン灯篭がありましたが、今回、行ってみるとなくなっていました。四年前に有田歴史探訪の折には、十字架の文様がさりげなく彫られた灯篭があり、大木宿の福田医院の庭にあったものが移設されたと説明していました。
 その由来はわかりませんが、大木宿の新店の松尾行雄君が、そんな灯篭は見たことがないというので、見に行きました。以前あったものがなくなっていました。確かこの辺にあったと思って、探したら、落ち葉の中に灯篭が半分埋まるように横たわっていました①。よく見ると、2mぐらい離れて、もう1基、同じように横たわって埋もれていました②。
①      ②
        
 龍泉寺にもキリシタンの墓らしきものがあると聞き、見に行きましたが、確かに、石塔の四面は、梵字が一字のみ彫られたものでした。施主は、横河、同苗、天ヶ瀬など、ここ近辺にはない名字が刻まれていたので、隠れキリシタンの墓ではないかというのです。(建立は文化八年四月 詳細は不明)
 いずれにしても、キリシタンに関するものが、点在していることは確かです。それは、黒田氏や大村氏、有馬氏などキリシタン大名の近くに位置する佐賀藩の中にも、多くのキリシタンが存在していたでしょうし、天草の陶土が有田焼(白磁)の原料として、島原経由で運ばれていた歴史にも関連するのではないかと推察できます。
心の道しるべ
法話のページへ

 

2020.6 住職:桃谷法信