法事は、還相回向を味わう
「我が歳、極まりて、安養の浄土に還帰すといえども
 和歌の浦和の片男波の 寄せかけ寄せかけ、還らんに同じ
 一人いてよろこばば、二人と思うべし、
   二人いてよろこばば、三人と思うべし、
     その一人な、親鸞なりとーーーー。」
 御正忌の朝晩のお勤めの後の法話の御讃題には、いつもこの
御臨末の書の一節をあげていました。
 いつしか、私も御正忌の法話の御讃題に、この一節を申すよう
になっています。
 1988年1月31日に往生の素懐をとげましたが、共立病院のベッ
ドの上で、阿弥陀如来の今現在説法を聴聞していたと思います。
 岩永久男さんに語ったという「親鸞さんに遇えて、よかった
ばい。」「如来さんのお救いは、わし一人のためやったばい。」
という話を聞くと浄土真宗の僧侶として、御法義をよろこび、
そして、なにより親鸞さんが好きだったのだなあと、あらためて
思います。 
親身になって看病してくださった 故 南春枝さんや実妹の管見
和子さんのことを、ありがたく、懐かしく思い起こしています。
 「『別れ時を、さのみ悲しく思うなよ。また遇うことのあると
思わば。』そんなうたをよくじいちゃん(管見達性さん)から聞
いてたよ。」と和子さんは、教えてくださいました。
 トラック島父島から、生還し、1947年に法泉寺に入寺して、
厳しい養父(桃谷法隆)から鍛われながら、法灯をつないでくだ
 2月2日(土)に、前住正顕院釋徹城教師(父:徹城)の25回忌と前々坊守、正法院釋尼妙道(祖母:ウタ)の50回忌を勤めさせていただきました。浄真寺さまご不在の為、以前法泉寺の代務住職をしていただいた南波多の源光寺さま(波多眞照師)に御導師をお願いしました。
 
下の文は、その時、参列の皆様にお配りした文章です。
さいました。月参りに行って、よく囲碁をし、対戦相手、勝敗を
日記につけていました。
 便所の肥え桶をかついで、百姓をし、庭の柿の木を利用した手
作りの鉄棒で、大振りや大車輪をみせ、30年間も民生委員を務め
ミニバレー大会の試合で汗をかき、気弱くなった病床でネズミ捕
りシートをはずしてくれと言った父。
「ごいっさん」と親しまれ、上本村の人たちから かわいがって
もらい、法泉寺の門信徒を育てた父。
 釈徹城師を偲びながら25回忌を勤修します。
 併せて、釈妙道(祖母ウタ)の50回忌を勤修します。
母が学校に勤めていたので、僕は、祖母ウタに育てられました。
ウタさんとは血のつながりはありませんが、本当に良く面倒をみて
下さいました。小学校の6年生の修学旅行についてきて、少し、恥
かしかったことを覚えています。やかましかった祖父法隆の3番目
の連れ合いとなり、青年団の面倒を見たり、法泉寺の坊守として、
厳しかった暮らしを切り盛りしてくださいました。
若い頃の満洲の話を良くしてくれました。、
赤ん坊のぼくに、乳を飲ませるため、母が勤めている曲川小学校
へ、日に2回も3回もおんぶして連れていってくれました。
優しさの中にきりりとした気品のある祖母でした。
2013.2 桃谷法信
 お斎は、保名という料亭で行いましたが、そこで、父やばあちゃんをよくご存じの方が、僕の知らなかったことを話して下さいました。50年も昔のもとを、まるで、昨日のことのように、嬉しそうに話して聞かせて下さいました。還相回向(げんそうえこう:お浄土に往生された方が、成仏し、この世に帰ってきて、導いてくださるはたらき)とは、このことだなあと、有難く、なつかしく、しみじみと味あわせていただきました。
 「法事は、してあげるのでもなく、してやるのでもなく、させていただくものだ。」という先輩の言葉を、ありがたく受け止めさせていただきました。
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