つぼみが膨らみ、花が開いて、ひとときを精一杯咲き、やがて萎れていく、観音菩薩のきわみ無きいのちが、諸行無常の理を、自然界は、否応なく教えてくれます。短い花のいのちがどれだけの力となるか、虫を活かし、人を和ませ、種を残し、いのちをつないでいく、本当に南無不可思議光如来です。  
一々の花のなかよりは、三十六百千億の 光明てらしてほがらかに いたらめところはさらになし」(浄土和讃)
 
 さて、その自然界とはうらはらに、人間界のどろどろ体たらくは、目を覆いたくなります。東北新報やNTTは、氷山の一角、コロナの感染アプリを請け負った孫請け会社は、78億円もの公費を使いながら、ほとんどその機能は使い物にならず、利権に群がる人々の懐を肥やしているばかり。有名大学を卒業して、高級官僚になった人、全てではありませんが、頭のいい人の頭の使い道は、詭弁を弄し、うそをいかに本当のように言うことができるかに腐心しているように思います。
 人間の欲望は、まさに餓鬼の姿を醸し出しています。志を高く持ち、この国を豊かにし、人々を幸せに導いていこうとして、学問に励んだはずなのに、審議官や事務次官など高級官僚になったら、初心は忘れるものなのでしょうか。
 7万円の料理をいただきながら、難民キャンプや災害被災者のことは何処かに置き忘れられているのでしょうね。
 ミャンマーのことも、核拡散防止条約のことも、そっちのけで、
 これは、決して現在のことばかりではなく、聖徳太子の時代も、親鸞聖人の時代も、蓮如上人の時も、人間の煩悩は、救いようがありませんでした。
 
 聖徳太子は、法隆寺夢殿の扉に「世間虚仮、唯仏是真」という言葉を残されています。天皇が天皇を殺し、親子兄弟が憎しみあう、豪族同士の権謀術策、その中で、太子は、三経の義疏を表わし、仏こそ真実であると宣言されたのでした。
 また、親鸞聖人は、
「この世のことは、そらごと、たわごと、まことある事なきにただ、念仏のみぞ、まことにて おわします」と。












 時代は、変わっても、尊敬される聖徳太子と全く同じ意味のことを述べておられます。
 地震をはじめ水害、旱魃、飢饉、疫病の流行など、鎌倉時代の歴史書「吾妻鑑」や鴨長明の「方丈記」等に記されている通りの不安な世相の中で、頼れるものなど何もないような情況の中でのお言葉です。
 阿弥陀如来の本願力回向に頼るしか救われようのない煩悩具足の凡夫(親鸞さまご自身)は「畢竟依」(究極のよりどころ=阿弥陀如来)を帰命せよと、浄土和讃に記されたのです。
 しかし、煩悩具足の凡夫を目当てのご本願だと言って、また、罪悪深重の私を目当てのお救いであると言って、悪いことをすればするほど救いがあるのだという「本願ぼこり」は、厳しく諫められました。「毒消しがあるからと言って、毒を好んではならない」ということです。
 政界も財界も、才知の権化である官僚界も、好むと好まざるにかかわらず、毒の餌食になっているようです。(勿論、私も含めて)

4月の行事予定(住職動静)

6日 善楽寺順番報恩講(4~6)出勤
13日 退職教職員協議会役員会
13日 むりょうじゅ会
 *7時30分 お勤めと法話(御文章を味わいます。)
   
昔は「ひゃーけんさん」(御文章披露)でした。
14日 伊万里栄町歌う会(28日も)
21日 有田町古木場高齢者サロン説法ライブ

本堂北面の懸魚(けぎょ:波風飾り)新調

 
400年の風雪に耐えてきた縣魚を新調しました。門信徒会会計の岩永久止さんが、楠木板を彫刻して、取り付けてくださいました。住職が塗装しました。

左:新調した懸魚
中:元禄時代の懸魚
右:本堂正面の懸魚
 その下に「波の兎」
  の彫り物がある










 




 新シリーズ「地域の古いもの」
 ⑰

善光寺如来の分霊
(北ノ川内;開拓の印)

 北ノ川内北岳の福田奥右衛門(松一さん)宅から代行道路を斜め北に少し登った所の黒い砂岩に磨崖仏があります。これは、1700年代の初、年貢収納を増産するために筒井仙右エ門(君義さんの先祖)が請負、狭い谷合いの木を切り倒し、石垣を積み、地面を平らにし、水路を作って、難儀をしながらも、北岳の開墾(水田5町歩)を成し遂げられ、約50年かかったこの開墾成就は神仏の加護のおかげと、地元の代表者数人が危険極まりない300里(1200㎞)の信濃の善光寺へお礼参りに行き、善光寺如来(阿弥陀如来)の分霊をいただかれました、帰り来て、開墾地の最上部の崖に洞を作り、お祀りされましたが、奥右衛門さんの3代前の亀吉さんが、自宅近くがお詣りし易いということで、明治時代の終り頃に現在地に移転されたそうです。また、2代前の治郎吉さんが、田んぼ3畝を祭田として提供されたので、北岳班の全戸が2月11日にお祭りされています。
 山中の自然石には、「信濃国善光寺、東堂高さ十丈二重屋根」「三門表十五間」「仁王門高さ三丈九尺二寸」と刻まれていたそうですが、(昭和四十五年岩永徳馬さん調査)今は、判読不明に風化しています。現在地には、その見取り図が掲げられています。
 ちなみに北ノ川内地区は、熱心な真宗門徒が多く、そのことが善光寺如来(阿弥陀如来)の勘請となったと思います。

 北岳の開墾だけでなく、有名な各地の棚田、旧西有田町も岳の棚田をはじめとして、楠木原、上本村、内野、山本、桑木原、山谷、切口、牧、広瀬など、ほとんどの山間の谷あいに開墾の棚田が見受けられ、その時代時代を生き抜いてこられた先人の苦労が偲ばれます。
 機械のない時代、
人力の手作業は、想像
を絶するものがありま
す。先人たちの残して
下さったものに感謝し
かありません。
★下内野の棚田         ★北岳の棚田            

一口法話    2021.4 桃谷法信

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