歩く @お釈迦様
2013.9 by:桃谷法信
 8月のお盆参りは、12日に遠方にお参りしました。13日からでは、車の渋滞に巻き込まれるからです。朝8時に出発。唐津周りで福岡市の小戸と野芥の盆参りを済ませて、三瀬トンネルを通って背振から久留米へ、そして逆戻りして佐賀市で2軒、武雄で2軒、帰宅したのは夕方の5時。全行程約300キロでした。
 「今日はよく走ったなあ。」と思いながら、昨日読ませていただいた福岡今宿の徳正寺便りをまとめた「すでに救いの中」(武内英真師)で出会った文章を思い起こしていました。
 インド巡拝の文章の中に、お釈迦様の足跡が記されてありました。68〜69ページから引用します。

「29才の時カピラ城から出家。一路南へ600Kmの道を王舎城へ。続いて100Km離れたガヤの苦行林で6年間のご修行。
そして35歳で遂に成道。まもなく西へ250Kmのサルナートでの初転法輪。
 ここからもとの道を350Km戻って、再び王舎城のビンバサーラ王への教化。竹林精舎・霊鷲山でのご説法。
 更にここから800kmもあろうかと思われる祇園精舎でのご説法。
 しかも釈尊は、雨季の3カ月を除いては一カ所に長逗留されることはほとんどなく、これらの地を拠点にガンジス河流域の北インドを隈なく訪れられたという。
 それは、クシナガラの地で病床に伏されるまで、それこそ歩きづくめの、しかも裸足による伝道の旅の連続であったのである。
 現地に赴いて、今更の如く、釈尊御自らの足による行動範囲の広さと、超人的健脚に驚嘆せしめられた私たちであった。釈尊の足が偏平足であったと言われる所以がこれで充分理解できるし、仏足頂礼の由来がうなづけるというものである。
 まさに、釈尊の生涯は、”足”による教化伝道のご一生であったのである。
 涅槃堂の読経の中で、私はこんな感慨を廻らしていた。そしてさらには、釈尊のこのような血の滲むが如きご苦労があったればこそ、仏道は完成し、二千数百年を経過しても今尚、こうしてお念仏せしめられる身になり得ることの出来た私であったかーーーと思わせていただいた時、流れる涙をどうすることも出来なかった。
 (昭和55年1月記す)」
                                         お釈迦様の行動地図 (ルンビニーは、ネパールにある) 


上記の地図は、北インドのガンジス川中流域の主にお釈迦さまに関係のある地名のあるものです。
 車も電車も飛行機もない時代に、このような広大な地を、自分の足で歩かれたお釈迦様の行動の原点は、何だったのでしょう。
 カースト制度に縛られた人々の、心の解放だったのではなかったのでしょうか。人生は苦なりと説かれ、我当安之と引き受けられました。その苦からの解放こそ、天上天下唯我独尊という基本的人権の確立だったのです。残念ながら、カーストの中で仏教は育ちえませんでしたが、南伝、北伝、東伝・・・
 時空を超えて、それも、その時その時に現れる時代の伝道者によって、2500年たった今も、脈々と、苦からの解放を示し続けています。
 八万四千という膨大なみ教えは、時代とともに適応しながら変化してきたのでしょう。それだけの人々の苦悩の数だけ、その救いがあることを示しているのです。

 インドの地もそうですが、親鸞さまや蓮如さまの行程も、お釈迦さまに負けず劣らずの”歩く”伝道でした。
 
 自分の健康のために歩いているウォーキングとどう違うのか、恥ずかしい限りです。そのことを味わうために、次回も“歩く”というテーマで記してみたいと思っています。次回、親鸞さまの“歩く”についてへ続きます。
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