歩くA 親鸞さま
2013.10 by:桃谷法信
 先月は、お釈迦様の足跡をたどり、伝道のために歩かれた事を想像し、その壮大なエネルギーに度肝を抜かれましたが、今月は、御開山親鸞聖人の歩かれたことについて、述べてみます。

 9歳の時、日野の里(宇治の近く)から約20キロを歩いて、東山の青蓮院へ、そこでお得度をされたのが始まりです。そして、また約20キロの坂道を登り、比叡山で、天台宗の堂僧として、修行に励まれました。
 早朝、山道を巡って観音様を拝みながらのご修行で、一日いったい何キロ歩かれたのでしょうか。
 有名な百日参籠の六角堂頂法寺へは、片道約30キロです。往復60キロの上り下りを、100日間続けられるのですから、相当な脚力です。
 20年間の修行の後、お釈迦さまと同じ年の29才の時、法然上人のもとへ、またまた100日間、照る日曇る日雨の日、いかなることがあろうとも毎日通って、専修念仏のおいわれをお聞きになりました。
 求道者として、想像を絶する歩きぶりです。やがて、東山吉水の法然上人のもとで、お念仏の極意、絶対他力のみ教えを学ばれ、生涯の伝道の道として決意されますが、わずか6年、35歳の時、念仏停止の法難に会い、流人として、越後の国に赴かれたのでした。琵琶湖を船で渡り、福井の海は、親鸞さまが初めて見られた海でした。親不知子知らずの難所を越え、日本海のきびしい波を越えて国府(新潟県上越市)の居多ヶ浜へ上陸され、竹之内草庵というところに落ち着かれたのです。
 流人というのは、罪人の一種ではありますが、1年分の食料と住居は保障された体(てい)のいい所払だと言われています。 人望を集めておられた法然さまや親鸞さまを打ち首や獄門にするのは、暴動につながると朝廷が考えたからです。二人とも5年後には、御赦免になられました。しかし、その間に、生涯の師と敬われた法然さまはお亡くなりになり、京都に戻っても頼るすべもなく、まだ念仏禁制の風は吹いていたので、宇都宮頼綱(常陸下野の有力者、法然さまの弟子)や笠間の郡稲田の領主、稲田頼重らの熱望で、関東の地へ赴かれました。

 越後から信濃の善光寺へ立ち寄り、上野の国佐貫を経て常陸の国へ入られました。小島の草庵や大山の草庵、稲田の草庵を拠点に、仏典や経典のそろっていた稲田神社や鹿島神宮を図書館代わりにして、教行信証の製作に励み、また、武士や庶民に請われて法話に出かける時も、自分の足で歩まれたのです。

 60歳を過ぎてから、関東をあとにして。京都にお戻りになられますが、箱根の山越え、天竜川大井川の川越なども、還暦を過ぎてからの道中としては、過酷であったと思われます。
 阿弥陀如来のご本願を伝えるための歩みだからこそ、親鸞さまの行動が賞賛されるのでしょう。果たしてどれだけの距離を歩かれたのか、お釈迦さまに匹敵する、いや、それ以上の距離ではなかったのでしょうか
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