愚ゆえに
2012.5 By 桃谷法信
 年のせいばかりではありません。物忘れが、多くなりました。
他人の行動を見て、「愚か者」と蔑んでいた自分が、実は、一番の「愚か者」だったと気づくことが多くなりました。まるで、裸の王様を演じているみたいに思える出来事が、多々あります。・・・とこんなふうに書き始めてみると、ブルーな気持ちに陥ってしまいます。が、・・・
 時は五月、若葉が一番美しい季節、鳥たちも喜び歌い、朱鷺のひなが3羽も孵化したニュースに、ブルーな気持ちは、黄砂の空へ吸い込まれてしまいました。
 
 他人の愚かさはよく見えますが、自分の愚かさは、自力では、中々見えてきません。大いなる光に照らされて、初めて、その影を見ることができるように思います。

 「大愚良寛」、「愚痴の法然」、「愚禿親鸞」、・・・・。
自分を厳しく見つめられた仏教界の先達は、自分のことを、「愚」と自覚されました。

 煩悩の根源は、「愚痴」です。「愚癡(ぐち)」が本来の書き方なのだそうですが、自分中心の考え方、俗に言う「ジコチュウ(自己中心)」こそ、悩みの種なのです。
誰に教えてもらうこともないのに、赤ちゃんは泣きます。
 お腹がすいた、喉が渇いた、だっこして、気持ち悪い、さびしい、怖い、・・・ジコチュウのかたまりです。このDNAに刻み込まれ、先祖代々受け継がれてきた自己中心の伝統は、自分一人の力では、どうすることもできません。修行僧や菩薩たちの精進は、この自己中心の魂との戦いであったと言っても過言ではないでしょう。大人になっても、例えば、自分がコップを割った時にも、「あっ、コップが割れた。」と言って、けっして、「コップを割った。」とは言いません。体に染み付いた「自分が一番可愛い」という性癖は、死ぬまで、留まらず、消えず、絶えず、私の中にあるのです。
 そこを、良寛様、法然様、親鸞様をはじめ、たくさんの先達が自覚されたのです。
 
 この「自分から」「自己中心」の生き様をを、愚痴と言うのです。
愚痴から出発して、思い通りに事が運ぶと、満足して、自分の手柄にしたがります。自慢し、驕慢になり、欲が再現なく広がる・・・・これを、「貪欲(とんよく)」と言います。

 反対に、思い通りにいかないと、他人や世間のせいにします。それでも収まらないと、先祖のせいにしたり、日が悪いと言ったり、方角がおかしいと言って、怒り出します。これを「瞋恚(しんに)」と言います。
 愚痴、貪欲、瞋恚の三つを合わせて、「三毒の煩悩」と言います。
煩悩には、108煩悩とか、八万四千の煩悩などがありますが、それは、人それぞれの悩みの多様性を表しているとも言えます。
 いずれにしても、煩悩具足の凡夫には、自力での解決は至難の技、良寛様や法然様、親鸞様でも到達できなかった成仏が、どうしてできましょうか。
 阿弥陀如来の誓願(救われてくれよとの願い)によって、往生浄土させていただき、成仏する以外に、私の救いはないと教えてくださいました。愚ゆえに、阿弥陀如来の本願があるのです。

 そして、愚ゆえに、坐像の阿弥陀如来ではなく、住立空中の立ち姿の阿弥陀如来が、浄土真宗のご本尊なのです。「こっちにおいで」の座ったままの仏様ではなく、いつでも、どこでも、どんな状況でも、如の世界から来て下さる如来様なのです。お正信偈にある「じょうさいむへん極濁悪」(地獄の底までやってきて抱き上げ、救いとって下さる)の如来様なのです。

 愚の自覚によって、信心が正因となり、称名報恩のお念仏が、溢れ出てくださいます。

 

*良寛様の本の英語版がありました。  児玉操さんと柳島彦作さんの共著で、
題名は、「RYOUKAN THE GREAT FOOL」 です。なるほど、偉大なる阿呆か、
言い得て妙ですね。
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