法名です
2013.3 by 桃谷法信
 立春を過ぎ、暦の上では春なのですが、まさに早春譜の歌詞のとおり、「春は名のみの風の寒さや」です。北国の大雪は、記録を塗り替え、雪かきや雪おろしのご苦労は、費用もさることながら、ほんとうに大変なことだと思います。
 さて、法泉寺のホームぺージ(以下HPと書きます)も15年目に入り、アクセス数も18000を超えました。毎月1回、この「ひとくち法話」の更新のみに終わっていますが、それでも楽しみにアクセスして下さる方がいて、本当にありがたいことです。
 法泉寺のHPは、www15.ocn.ne.jp/~housennji/でアクセスできます。また、「桃谷法信」で検索すると、HPのどこかにアクセスしますので、試してみて下さい。HPの掲示板には、色々な方面からメールが届きます。先日、埼玉県越谷市の浦川さまから次の様なメールが届いていました。
原明の浦川幹男の弟です。3年前 妻が亡くなった時に、戒名をいただきました。小さな仏壇ですが、飾らしております。しばらく病気をしておりましたので、なかなかパソコンを使う機会がなく、今日ホームページを見てメールさせて頂きました。帰省した時には、お参りさせて頂きたいと思います。その時は、よろしくお願いいたします。
 掲示板の上で、次の様な御返事を差し上げました。
メール、ありがとうございます。久しぶりにHPを開いたら届いていました。
幹男さんも奥様の看病、痩せた体で献身的になさっておられる姿に頭が下がります。
幸吉さまも御病気だったのですね。どうぞごゆっくり養生なさってください。亡くなられた奥様、もう3年もたつのですね。思い出された時は、「ああ、ここにかえってきてくれたのだ。」という還相摂化(げんそうせっか)の働きと、よろこんで念仏していただきたいと思います。浄土真宗の一番のご利益かと思います。
 ちなみに、浄土真宗では、戒名と言わず、法名と言います。
これは、戒律を保てるような自力の行者ではないからです。阿弥陀如来の大きなはたらきによって(絶対他力)しか救われない煩悩具足の凡夫は、とても戒律など守れない。だからこそ、私を目当てに阿弥陀仏のご本願が、成就されたのです。


 そのご本願をいただく信心の行者は、すべて、お釈迦様の仏弟子だという意味で、釋(しゃく)○○という法名が付けられるのです。
 法名について、末本浩然さんの「仏事のイロハ」というご本から引用します。

ーーー法名というのは“仏法に帰依した人の名前”(キリスト教のクリスチャン・ネームのようなもの)で、主に本山で行われる帰敬式(ききょうしき:おかみそり)を受けた人に対して、ご門主から授与されるものなのです。
 つまり「仏教徒としての自覚を持って生きる」証(あか)しの名前であり、生きている間に授かるべき性質のものです。
 「それでは葬儀の時も、別に俗名のままでよいのではないか」と言われる方があるかもしれません。しかし、浄土真宗のお味わいからすると「亡き人は阿弥陀如来のお救いによってお浄土に生まれ、仏さまになられている」と思えてくるのが自然です。そうした故人を偲ぶ時、俗名でなく法名がふさわしいと言えましょう。
 ところで、浄土真宗では“戒名(かいみょう)”という言い方はいたしません。なぜならば、戒名というのは、自力修行をめざし受戒(じゅかい)した人に対して授けられる名前であり、自力修行や受戒を必要としない浄土真宗にはそぐわないからです。
 葬儀の時、導師のご住職が“おかみそり”を行うのは、生前、こうした帰敬式を受けることなく亡くなったからで、ご門主になり代わって行っているのです。
 自力(戒律を保って修行する)では無理な後生の一大事の解決を、すべて、阿弥陀如来にお任せし、その恩徳を報謝していく、そのお礼の言葉が、「ナモアミダブツ」なのです。
 ある禅宗のお坊様がアメリカの人たちに
「ナモアミダブツ イツ ミーン サンキュー アンド アイムソーリー アンド アイラブユー」と教えて下さっていました。
「ありがとう ごめんなさい おかげさまで」 とでも訳せましょうか。全くその通りだと思います。
 長々と、まとまりのないお返事になってしまいました。
やがて、仏さまにならせていただく身、どうぞ、大切に。 合掌


浦川さんのおかげで、法名について、述べさせていただくことができました。ありがとうございました。
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