有田町探訪バスツアーが、9月と10月、4回にわたって、行なわれることになり、その2回分の案内人を頼まれたので、今。コースを考えていますが、一つは、縄文時代の豊かな暮らしを、紹介しようと思っています。
 東に、日本でも有数の黒曜石の産地、腰岳を望み、西は、国見山系の700m級の広葉樹林、その間を北流し、伊万里湾に注ぐ有田川に沿って、旧西有田の集落があります。有田焼創業400年とか、松浦源氏の唐船城開城800年などと言われていますが、この地に暮らした旧石器時代人や縄文人は、約2万年もの長きにわたり、自然と共生しながら、厳しいけれど、豊かな生活をおくってきた遺跡がたくさん発見されていることを紹介しようと考えています。
 その中で、山本地区の農業、郷土史家の吉永直さんが農作業中に発見された「坂ノ下縄文遺跡」は、ぜひ知ってもらいたい遺跡の一つです。
 昭和42,44年の調査で、21基の貯蔵穴が確認され、阿高式土器やアラカシの実、木の皮で作った籠、紐などが出土しました。
 約四千年前の生活の様子や当時の工芸技術の水準の高さがしのばれます。また、発見されたアラカシの実が発芽し、現在、佐賀県立博物館の庭で大きく育っており、孫やひ孫が、縄文樫の木として、各所で育っています。
 同級生で造園業の森和生さん(広瀬山)は、その子孫の苗をたくさん育てていろいろな人に配られています。
 ともあれ、国見山麓に暮らした縄文時代の人々が、その当時の自然環境に合わせて、狩猟や採集を中心にしながらも、貯蔵法、土器を使った煮炊きによる調理やあく抜きの技術など、知恵を絞ってたくましく生き抜いたことは、現代の我々がもっと学ばなくてはならないし、その生き方を現代に生かしていくことが肝要だと思うのです。
 近くに、狩場の椨(たぶ)の木(高さ20m)があり、根元に「狩場明神、安永三年午年四月吉日法印弁貞敬白」と刻された石祠が建立されています。伝承では、古来、狩りに出かけるときに、豊猟や安全を祈願して出かけたと云われています。また、この大きな木が、大木村の村名の由来ではないかと推察されます。

 縄文の昔から、娑婆堪忍土の世界で、自然の恵み(アミダ)を受けつつ、いのちをつないできたご先祖様たちのご苦労を忘れず、嗜みを持って感謝して暮らしていくことが、御恩報謝のひぐらしです。縄文時代や、石器時代のもっと昔、十劫の昔から阿弥陀様は、私のいのちを目当てとして、働き続けておられるのです。
 「十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなわし、
  摂取して捨てざれば、阿弥陀と名付け奉る。」
           (親鸞聖人:浄土和讃)
 私のいのちも、縄文、先史から受け継がれてきたと思うと、本当に不思議でしかたありません。

十劫の昔から
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2015.8 桃谷法信

仏像のまね E 半眼(はんがん)            

 奈良の大仏(毘盧遮那仏)、鎌倉大仏(阿弥陀如来)臼杵の磨崖仏(薬師如来)など。如来さまの像に共通しているものは、目の開き具合です。みんな、半分目を閉じた半眼です。まるで、幼児が眠りに陥る寸前の目の開き方です。如来さまたちは、眠たいのでしょうか。いえいえ、そうではありません。眠たいということより、今の世相を憐れんで、泣きたいのかもしれませんが、そうでもなさそうです。
 では、いったい、あの半眼の意味するものは、何でしょうか。
 それは仏像に向かって手を合わせている人々をやさしいまなざしで見つめてくださる、とともにその人々のためになる何かを思案してくださっているということです
 それは仏像に向かって手を合わせている人々をやさしいまなざしで見つめてくださる、とともにその人々のためになる何かを思案してくださっているということです。ということは、仏像は単に見えているものだけを見ているのではない、見えないものにも、思いをはせるのだという姿勢がはっきりとあらわれています。それに、人間は、外に向かって、自分中心の見方(邪見)が多いので、外を見る事と同じようにように、内も見なさいと教えてくださっているのです。
 半眼と一緒に使われる言葉に、半眼半口(はんがんはんく)がありますが、これも、口を慎もうということではないでしょうか、要するに、極端にならず、偏らず、バランスをとって、中道を歩むというお釈迦様の教えが、仏像の形となっているのです。
 人間も深い思索をしているときは、半眼になっているような気がします。

 

 
8月の行事

 9日(日) お盆参り(福岡、久留米、佐賀)
13日(木) お盆参り(初盆、佐世保P戸越、矢峰、広田)
 
       *むりょうじゅ会 PM7:30〜
14日(金) お盆参り(佐世保三川内、木原。伊万里方面)
       
*原明お講 PM7:30〜
15日(土) 長崎、その他、ご希望で
       *平和の鐘 かねつき 12:00