96歳の時、まどさんは、 「私は臆病(おくびょう)な人間です。また戦争が起こったら、同じ失敗を繰り返す気がします。決して大きなことなど言えぬ、弱い人間なんだという目で、自分をいつも見ていたい」とも語っています。
自己洞察の鋭さは、親鸞聖人と重なってしまいます。
阿弥陀さまのはたらきを 一番表しているのは、「朝がくると」という詩です。
朝がくると とびおきて ぼくがつくったのでもない水道で 顔を洗うと
ぼくがつくったのでもない洋服を着て
ぼくがつくったのでもないごはんをむしゃむしゃ食べる
それから ぼくがつくったのでもない本やノートを
ぼくがつくったのでもないランドセルにつめて 背中にしょって さて
ぼくがつくったのでもないくつをはくと たったかたったかでかけていく
ぼくがつくったのでもない道路を ぼくがつくったのでもない学校へと
ああ なんのために
いまにおとなになったなら ぼくだって ぼくだって
なにかをつくることができるように なるために
自分で作ったものなんて、ひとつもない。
身の回りにあるものは、すべて、何処かの誰かが作って下さった物。
ものだけじゃない。空気も熱も光も大地も・・・わたしの体も・・・・
気づこうが気づくまいが、そんなことおかまいなしに、わたしを守って下さる大きなはたらき、それを「アミダ」とインドの言葉で言うのです。
そして、そのことに感謝する言葉が、ナモアミダーバー(南無阿弥陀仏)のお念仏です。言いやすいように、先人たちは、「なまんだー、なまんだー」と称えました。
2月28日、そのまどみちおさんが往生の素懐をとげられました。
本当の仏さまになられました。
別れや死は、遺されたものの生き方を豊かにして下さいます。
別れた人や亡くなった方は、弔うことによって、私を導いて下さいます。
これからも、まどさんは、ずっと、僕を導いて下さいます。