いのちがいのちを支えてる
2012.7 桃谷法信
 朝の散歩の時、ヒメジオンが、語りかけてきたので、
仏花として、お供えしました。
その前は、薊(あざみ)も語りかけてきましたが、トゲの
ある花は、仏花として適切ではなかったので、玄関に
飾りました。
季節ごとに咲く花は、その時を、精一杯、生きています。
 それでも、時が来れば、しおれ、枯れ、朽ちていきます。
仏花としてのヒメジオンも、三日もすると小さな粉の様な種を落として、しおれ始めました。
諸行無常、諸法無我、涅槃寂静(しょぎょうむじょう、しょほうむが、ねはんじゃくじょう)の中で、大きないのちに還っていくのです。
 では、薊もヒメジオンも消えてなくなったのでしょうか?
そんなことはありません。来年も再来年も、また、花を咲かせます。 
 僕が、ヒメジオンだとしたら、ヒメジオンと同じように、僕の肉体は、老いさらばえて、朽ちていきますが、大きないのちの中に還っていくのです。
 
 今年も、お盆を迎えました。自分のいのちが、無始からつながっているいのちだと思うと、いのちをつないでくださったご先祖様のいのちの中にあるのだという確信が得られます。日頃、お礼を言うことも忘れてしまっている自分の姿を見せてくださるのが、お盆の行事ではないのでしょうか。

 歳をとると、若いときには見えなかったものが、見えてくるようになります。
いのちも、その正体がだんだん見えてくるようになりました。
それは、失っていくものが多いからだと思います。あるいは、余分なものが目に入らなくなったり、聞こえなくなったり、たくさんな出会いの中で気づかされることが多いからだと思います。

 久留米の石橋美術館に、黒田清輝さんの
「針仕事」という絵があります。1890年頃に
フランスで描かれたものだそうですが、絵の
主体は、針仕事をしているフランスの女の人
ではなく、「窓から差し込む光」 なのだそう
です。
 黒田さんには、「編み物をする人」という作品
や、「雲」だけを描いた作品がたくさんあります。
「光」を描きたかったんだろうと思います。
 一枚の絵を見ても、描かれている見える部分
に目がいきますが、見せているものがあり、そ
の見せているものによって、始めて見えるもの
が生きてくるのです。
 書でも、書かれている字の勢いや形よりも、
書かれていない白い空間にこそ味があるのだ
ということを聞いたことがあります。

 つまり、見えるいのちは、見えないいのちに支えれているのです。ぼくは、どれだけの見えないいのちに支えられているのでしょうか。数え上げることができるのは、ほんの氷山の一角よりも、もっと、少ないものでしょう。その目に見えないものを無量寿、無量光、(むりょうじゅ、むりょうこう)、サンスクリット語で、
アミターユス、アミターバーというのです。 中国に入って来る時、何人もの三蔵法師が、「阿弥陀仏」と訳してくださいました。
 
 見えないものの大いなる働きに、「ありがとう、ごめんなさい、お陰様で、もったいない」と懺悔し、感謝し、頂戴する言葉が、「南無阿弥陀仏」という称名念仏です。
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針仕事
編み物をする人