仏教的に食を味わうI 経皮毒(けいひどく)

 先月号で「添加物」のことを書いたら、それじゃ何も食べられんという声を聴いたので、解毒について述べます。
 体内に入ってはいけないものを口にすると、吐き出すか、下痢をして体に良くないものを外に出す働きが備わっています。それは、いのちを守ろうとするアミダのはたらきです。また、肝臓や腎臓などが分解してくれて、解毒するように働き続けてくださっています。だから、口から入ったものは、青酸カリなどの劇薬を除けば、少々の残留農薬や化学合成の添加物でも肝臓や腎臓のはたらきがあるから大丈夫です。
 ところが、皮膚から入ってくる毒は、消化されることがなく、永久に体に取り込まれます。ウエットティッシュで赤ちゃんのお尻をふいている母親に「だめだよー」と言いたいし、安い化粧品や虫よけスプレー、日焼け止めクリームなど危険なものがいっぱい溢れています。体内に取り込まれるものは、口からだけじゃないことを肝に銘ずることが肝心です。
無量光
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2018.3 桃谷法信
 2月の中旬から有田小学校に勤めています。お寺が不在で、お参りに来られた方には、お茶も出せず、法務も、土曜日曜と、ウイークデーは、夕方5時以降になってご迷惑をかけています。
 担任の先生が網膜剥離で3月いっぱい加療が必要ということで、急遽、教育委員会からお願いがあり、4年1組の担任として勤務しています。このクラスは、3年生の時(去年)11月から3月まで音楽や体育、算数を担当したクラスで、個性の強い子どもたちばかりがどうしてこのクラスに集まったのだろうと思えるほど、毎日もぐらたたきのゲーム感覚で、授業をしています。パワーあふれる男の子、ナイーブな女の子、洞察力の優れた子、ナイフのような鋭い感覚を持った子、3週間の間、平穏だった日はありません。そんな子どもたちを見ていると、仏説阿弥陀経の蓮の花に思いが及んで、不思議な感覚に襲われます。青色青光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光、それぞれの個性が、それぞれに輝きながら精一杯それぞれのいのちを燃やし続けています。
 その子どもたちは、有田小学校の新しい校舎に引っ越しをし、2月28日に新校舎の落成式がありました。木材をふんだんに使い、トイレの手洗い鉢は、焼き物の里にふさわしく、有田焼の手水鉢が多くの窯元から寄贈していただきました。落成式では、校舎建設の関わったたくさんのお客様の紹介があり、どれほどたくさんの人々や物や話し合いの中で、自分たちの学習する場所をいただけたのかを知りました。紹介された方々のほかにもたくさんの眼には見えない働きがあったのだと感じたことは、その場にはいない(転勤した)県の職員の江口さんや準備段階から関わってこられた転勤された先生方の大きな力添えがあったればこそなのです。その働きを親鸞さまは、無量光とよろこばれ、不可思議光と讃えられたのです。これは、有田小学校のことだけではなく、私たちの目の前に展開するすべての出来事に当てはまり、その大きな働きの中にあることがうなずけます。その日の ある子どもの日記に、「一人一人の力は小さいけど、力を合わせればすごいことができるということがわかりました。ぼくも友だちと協力していきたいと思いました。」と書かれてありました。
 お浄土の蓮の花の青や黄色、赤や白は、それぞれの光を放ちながら、世界を調和させ、仏さまの世界を荘厳しているのです。親鸞さまは、その働きこそがアミダであったといただかれたのです。
 アミダブツ、アミダニョライと言えば、立像や絵像の阿弥陀如来を思い浮かべますが、親鸞聖人は、唯信鈔文意に
「しかれば、仏について二種の法身まします。一には法性法身、二には方便法身と申す。法性法身と申すは、色も形もましませず、しかれば、心もおよばれず、言葉も絶えたり。この一如より形をあらわして方便法身と申す、その御相に法蔵比丘となりたまいて四十八願を発しあらわしたもうなり。」
と述べておられます。
 つまり、アミダブツというはたらきは、色も形もなく、よって、心で感じることも、言葉で言い表すことも難しいとおっしゃっておられるのです。でも。何とか言い表そうとして、日なり水なり風なり大地なり火なり・・・真実明、畢竟依、平等覚、大応倶・・・帰命盡十方無碍光如来、南無不可思議光如来、無量寿如来、・・などという表現を試みておられます。でも、なかなか難しい。そこで、インドの言葉である「アミターバ」(無量寿)「アミターユス」(無量光)をそのまま音写して、「あみだぶつ」と言い、「ナンマンダブ」と称えるのです。
 拝んでいるつもりが、実は、遠い昔から拝まれてあったいのちであった、自分の力では、何一つ自由にできない自分であったと気づかされていく、生まれることも、年を重ねることも、五臓六腑が働いてくださっていることも、癌が広がっていくことも、リンパ球や血液が流れめぐっていることも、死ぬことも、諸行無常、諸法無我の四苦八苦の中で、業を重ねる以外、何もできない私であったのに、赦されて生かされていたと感じたときに、慚愧歓喜のお念仏が私の口をついて、出てきてくださる。それが、信心正因、称名報恩の「なもあみだぶつ」なのです。生まれる前から、拝まれていた私でありました。生まれてからも、拝まない時も拝まれていた私でありました。ナンマンダブ、なんまんだぶ。


●春の彼岸会
 年に2回の彼岸会は、春分の日、秋分の日を中心にお勤めします。昼と夜、暑さ寒さ、ちょうど程よい、いい加減、いい塩梅、偏らない、など、お釈迦様が説かれた「物事に執着しない中道の精神」が季節に合致していることや聞法にちょうど良いことから、法座が開かれることになったのでしょうね。
 法泉寺では、19,20,21の三日間いずれも夜のお座で19:30からお勤めします。21日の彼岸の中日は、朝10時からの朝座もございます。どうぞ、お誘いあわせ、声を掛け合って、お参りください。

●おみのり替え歌 @なんまんだぶし(再録)
 
むかし、守屋ひろしさんが歌っていた「ありがたやぶし」が最近とみに口をついて出てきます。歌詞をはっきり覚えていなかったのが幸いして、替え歌ができました。
1、咳やくしゃみや鼻水も、汗や涙も放屁さえ
 自分の力じゃどうにもならぬ、みんな阿弥陀のお働き
 ありがたやありがたや、ありがたやなんまんだ
2、ありがたいとは有ること難し、当たり前などありません
 諸行無常ということも、諸法無我ということも、
 ありがたやありがたや、ありがたやなんまんだ

3月行事予定
 
●13日 むりょうじゅ会例会 夜7時半〜
 ●19.20.21日の三日間 春の彼岸会法座
           いずれも、夜7時半から
           21日の中日は、朝10時からも勤めます。
           どうぞ、お誘い合わせてお参りください。