2012.4 by桃谷法信
年輪
 春ほど光が美しい季節は
ありません。
春夏秋冬、それぞれに良さは
ありましょうが、ぼくは、春の
光が一番好きです。
 春の光を感じると、身も心も躍動感に満ち溢れ、さあ、出発しようという気になります。
 年度の初めを4月に定めた先人の感性に脱帽です。と、ここまで書いて、ちょっと待てよ、年度というのは、本当に4月が出発なのだろうか、という疑問が湧いてきました。なぜなら、僕が住んでいる地区(上本)の会計年度は、3月1日からなのです。4月の町の行事などに新予算で対応できるようにとのことらしく、これも先人の知恵なのだろうと思います。
 ネットで調べると、会計年度や学校年度は、4月からですが酒造年度は、7月からで、農業年度は、ほとんどが10月からです。外国は、ほとんど10月からですが、お隣の韓国は、3月からです。
 このことから、それぞれの風土や気候、季節に合わせた年の区切りをつけてあるのだなあと思いました。グローバル化という怪物の前に、東大など、学校の年度を変えようとする動きもありますが、2学期制なども含めて、もっと、季節に合ったその土地にあった区切りをすることが大切ではないかと思います。どんどん本題を離れて余談になっていきますが、春に運動会をする学校が増えてきました。受験体制の中では、そのほうが都合がいいのでしょうが、1年間のサイクルの中での人間の成長スパイラルから考えると、ちょっと待ってよ、と言いたくなります。 
 自然の植物など、春に芽吹き、秋の収穫が普通の生長過程で、動物もそんなふうな体の作りになっているはずです。夏の暑さを超えて、天高く馬肥える秋となる。人間だって、秋にこそ力がみなぎり、寒い冬を乗り切る準備をする。その充実した力を発揮するために、先人は、秋に運動会を企画したのではないでしょうか。だから、春の運動会には、疑問を感じます。
   




 






 実りというのは、植物、動物ともに、その内にある年輪の結晶だと思います。年輪は、冬の寒さと夏の暑さの成長の違いだと言われていますが、艱難辛苦の足跡ともいえましょう。

 桜の木の年輪ははっきりとわかりませんが、年輪があるとすれば、きっと、薄桃色と緑の年輪だろうと想像します。以前、紹介したこともありますが、染色家の志村ふくみさんが
 「桜の色を染め出そうと試行錯誤を重ねた結果、薄桃色に染ま ったのは、冬に採取した枯れたような木の幹だった。
 桜の花が終わったあとの木の幹からは、薄緑色の染織しかでき なかった。」
 ということを書いておられましたが、桜の花が満開の頃に、木は葉っぱの準備のために、木全体が緑色になっているのでしょう。外見に現れる相は、内面から出てくるものだということです。そして、それは、次の準備のために、内面に蓄えられるのです。
 それを支える大地や空、地蔵菩薩や虚空蔵菩薩の働きの中で、桜の花が咲き、やがて、木に栄養を蓄える葉桜となるのです。

 人間の年輪も、喜びや悲しみ、怒りや哀しみ、苦しみや楽しみなどが刻まれていくものだと思います。
 私の中に刻まれていく業の年輪は、どんな年輪なのでしょうか。人様には決して見せられないようなヒダもある僕の年輪、どんな年輪であろうが、必ず救うというアミター(阿弥陀如来)のはたらきの中で、願力不思議の名号のはたらきによって、摂取不捨の利益にあずかるのです。
 今月の表紙の版画は、
   願力成就の報土には、自力の心行いたらねば
   大小聖人みなながら 如来の弘誓に乗ずなり。
という御和讃です。
 自力修行の年輪を積み重ねた大乗や小乗の聖人も、究極は、阿弥陀如来の誓いの船に乗せていただくのです。
 
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