青色青光・A
2014.1 桃谷法信
 10月13日、今年もまた、去年と同じく鳥取の養源寺様(山名立洋住職)で、寺子屋コンサートに出演しました。
熊本山鹿の寒香知軒君と福岡の弟、桃谷孝正(バイオリンで参加)の3人なので、モモカンバンドという名を山名君がつけていました。
 台風19号の真っただ中だったにもかかわらず、養源寺本堂はいっぱいのお客さんでした。帰りの飛行機を心配されて、ピアノの弾き語りの東京の寺尾沙穂さんがトップバッター、独特の声とメロディーラインで魅力的なステージでした。
 2番手は、僕たちモモカンバンド、三帰依文ではじめて、バイオリンを入れてのカントリーっぽい歌を中心に歌いました。
 トリは、デュークエイセスのトップテナー大須賀ひできさんとギターの玉木幸治さんのプロの演奏でした。
 福島の自宅に帰れない仮設住宅暮らしのお年寄りから聞き取ったお話をもとに作られたという歌と語り、父親との絆をうたった「肩車」、人と人のつながりをうたった「雪のように」、そして、持ち歌の「女一人」・・・思わず涙が出てきました。
 
 帰り道は、鳥取道に入らずに国道9号を西下しました。台風の影響で、道路に砂がたまり、雪かきならぬ砂かきをされていました。米子自動車道に乗るために、倉吉から中国山脈に入りかけたとき、寒香君の知り合いが、倉吉の博物館で、作品を展示しているので見ていきたいとのことで、寄り道をしました。「アール・ブリュット展〜そこにある美術」という催しで、障害のある人たちの作品展でした。
 寒香君の知り合いは、藤岡祐機(1993〜)さんで、紙をはさみで切った作品でしたが、髪の毛よりも細く切られた作品は、材質によって、縮緬(ちりめん)やパーマをかけたようになっていました。そして、裏側の色が見え隠れし、今まで見たこともないような美しさを追求する喜びを味わっておられるのだろうと思いました。
解説を読むと、クラシック音楽を大音響で聴きながら体を前後に揺さぶりながら、はさみを使っていくのだそうです。

 ほかにも、僕の思考には及ぶべくもないような発想で生み出された作品が、倉吉市博物館のスペースを埋め尽くしていました。
 吉澤健さんは、100円ショップで買い求めたB7のノートや雑誌、街でもらったフリーペーパーなどにアラビア文字のような独特の字を端から端まで埋め尽くすように書き込んでいるのです。外出するたびに目に入ってくる看板、建物、車や行程などをこと細かく記録し、最後まで聞き終えたら、ノートの側面をセロテープでガチガチに止め、封印するのだそうです。それは、お母さんによると、「この記録はこれでおしまい。」という意味なんだそうです。
 80歳の宮間英次郎さんは、小さいころから体が弱くそして貧しく、いつもいじめられ何も楽しいことがなかったという子どもの時代、そして、日雇い労働で町を転々としながら何とか暮らしを立てたが、60歳のころ、ふとしたことから、カップラーメンの容器を頭にかぶって歩くと、人が振り返ったことがきっかけで、造花を刺したり飾ったりすると、周りの人が反応するワクワク感が楽しくて、帽子に巨大な激しいデコレーションをするようになり、行動範囲が広がると自転車で出かけるようになって、「幸せを感じる」生き方をされているのです。今では、繁華街に出没して、喝采を受ける日常だそうです。
 滋賀県の古久保憲満さん(1995年生まれ)の、縦156ミリ、横10000ミリの作品は、彼が6歳の時から書き始めた作品で、まだ完成せずに描き続けられていました。パソコンで得た情報をもとにして、描き上げながら生まれてくる創造が怒涛のように湧き出てくるというのです。

 一つのことに集中して、根気強くいのちを吹き込んだ作品の一つひとつが、語り掛けてきました。
ひとりの人間というか、あらゆる生きとし生けるものすべてが、光を放ち、周りを照らしている。まるで、阿弥陀様のお浄土に開く大輪の蓮の花、青色青光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光の世界を見せてもらったような気がしました。

 この「アール・ブリュット展〜そこにある美術」の展覧会は、この後11月に島根で、そして、12月は、なんと佐賀にやってくるそうです。ぜひ見ていただきたいと思います。ちなみに入場無料でした。
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    11月の行事予定               
6〜7日 組会議員研修会(嬉野) 住職と総代参加

13日 19:30 むりょうじゅう会

14日 19:30 原明地区お講

  *11月下旬より在家報恩講にお参りさせていただきます。
    ご希望の日程、ご連絡ください。
言葉を味わう G沈黙   

 NHKの朝ドラは、「あまちゃん」 「花子とアン」 「マッサン」と続き、僕の朝の楽しみの一つになっています。どれも、「ん」で終わるタイトルで、それは必ずヒットするといわれています。
 「ん」の字は、無とか无の漢字からきていますが、実体がないことやつかみどころのないことなど、あるいは否定の意味に使われます。
 
 言葉が無いことや言葉が途切れることを沈黙と言いますが、昔から「雄弁は銀、沈黙は金」と言われるように、黙っていることが饒舌よりもたくさんのことを伝えることが多いのではないかと感じることがあります。
 朝ドラに共通する「沈黙」は、とても大きな効果を観るものに与えていると思います。
「それを言っちゃーおしまいよ」と思う場面も多々あります。
言い訳をすればするほど、窮地に陥ってしまう。そんなことは、日常の暮らしの中でよくあることです。
 また、「沈黙」は、思考を深めるという点でも大きな役割を果たします。
「黙ってないで、何か言ってよ。」と言われそうですが、沈黙こそ宝物と思い、少し口を慎もうと思っています。