●法泉寺の歴史について |
法泉寺の本堂は、江戸時代の初めごろ(約400年前)現在の有田大観音 |
のある唐船城のふもとにありました。 |
真言宗の普門院というお寺で、当時、有田川にかかる橋がなく、飛び石を渡っ |
て、信徒はお参りをしていました。しかし、大雨が降ると、川が増水し、飛び石 |
が隠れ、渡ることができなかったのです。 |
そこで、大木地区の真言宗の信徒は、現在地に龍泉寺を建立しました。 |
明治29年のことです。 |
下舞原にあった浄土真宗の法徳庵の桃谷自牽は、地元の区民の力を借りて、 |
上本の中心地にあった墓山と呼ばれていた所に、普門院の建物を移築し、 |
本村布教所としての拠点としました。 |
その起源は明らかではありませんが、初代または二代庵主のものと区民が |
伝える墓碑が下迎にあります。 |
それに「智教師、嘉永六年癸丑三月二十日 施主 当庵三代○乗」とあり、 |
嘉永以前に始まることは確かなようです。 |
所在地は舞原から下迎、さらにもう一ヶ所移った末、明治以前に区の中央に |
当たる現在地に落ち着き、代々、仏法の布教に努めてきました。 |
元は法徳庵といいましたが、昭和十四年に宗教団体法が公布された際に |
本村布教所と改め、戦後の宗教法人令をうけて二十三年二月に浄土真宗 |
法泉寺となったのです。 |
墓碑にある「○乗」は、佐賀市高木瀬の報恩寺の住職桃谷力乗のことでは |
ないかと思います。力乗の長男が、桃谷自牽です。その長男が桃谷洞雲で |
洞雲は、小長井(現:諫早市)の浄真寺に入り、次男の法隆が法泉寺の初代 |
住職となり、湯江(現:諫早市>から管見徹城を養子として迎え2代住職を継が |
せ、現在、法信が3代住職として、法統を継承しています。 |
今、土曜学校や子ども雅楽など、次世代を担う子どもたちの宗教的情操教育に |
力を注いでいますが、曽祖父、自牽さんのDNAが、引き継がれているなあと思う |
時があります。 |